第五節 異変

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第五節 異変

 謁見はとうに終わって晩餐会に移行しても、各国の大使らの祝辞は続いた。ひとしきり祝辞を受け終わったのち、そっと溜息をつく。たいていが「今回のご婚約まことにおめでとうございます」「このように美しいおふたりが、未来の皇帝夫妻とは、これはさぞ御子も美しい御子がお生まれに……」といった、当たり障りのない祝辞に、「ありがとうございます」とこれまた当たり障りのない礼と挨拶を述べる。それだけのことだが、いかんせん人数が多いこともあって、さすがにグレイも辟易した。 「お疲れでいらっしゃいますか?」 「え?」 「お食事もあまり進んでいないご様子でしたので……」  隣から、ひそやかな労わりの声が飛んできた。もちろん、隣に座っているのは己の婚約者であるリドヴィナしかいない。そちらへ顔を向ければ、珍しいことにいつもと違って、こちらを気遣わしげに見つめていた。余計な心配をかけさせてしまったか――そう自分を反省し、大丈夫だと答えようとしたそのとき。 「仲睦まじいことでよろしいなあ! 姫君も殿下もまるで人形のようで」  ふたりの前に立ったのは、叔父のアルトだった。もう既に酔いがまわっているのか、顔は赤らんでいて、服の襟元も崩れている。その手にはワインの入っているらしいゴブレット。晩餐会とはいえ、国賓を招いている場での叔父の醜態に、グレイは眉をひそめた。見ればリドヴィナも少し困ったように眉を下げている。  足取りもふらふらと危なっかしい叔父に、側近たちが支えに入る。「アルト殿下、今日は賓客もいらっしゃいますから」「どうかお戯れはこのあたりに……」さしもの側近たちも、今日の晩餐会では主の醜態をさらしたくないらしい。それもそうだろう、仮にも皇帝になりたいと主張する者が、現皇帝のように愚か者だと国外に知られては、今後の活動にも差し障りが出るのだから。  しかし酔っ払ったアルトは「うるさい!」と側近たちを振り払った――その拍子に、ゴブレットからワインが勢いよくこぼれた。飛沫となったそれは、白いテーブルクロスや床だけでなく、運悪くリドヴィナのドレスにまで飛び散った。 「姫君!」 「大丈夫です、殿下。そんなに目立ちませんので」  リドヴィナはそう言うものの、若草色のドレスにくっきりと赤紫の染みが浮かんでいる。グレイは後ろに控えていた侍女頭に、リドヴィナの着替えを頼んだ。国賓、来賓のいる中、汚れたドレスのままでは、後で何かと揶揄されるのはリドヴィナだ。 「では失礼いたします」優秀な侍女頭は、ちらりとも動じずリドヴィナを控えの間まで連れていく。リドヴィナが少し申し訳なさそうにこちらを向いたが、グレイの身内が彼女に迷惑をかけたのだから、少しも彼女に非はない。  アルトは「離せ!」などと喚きながら、しかし側近たちによって力ずくで席に連れ戻された。その様子を見届け、グレイは呆れた溜息をつく。上座の皇帝はといえば、そんな身内の不祥事を咎めるでもなく、ただにやにやと酒をあおっていた。あの愚帝にして、この愚弟。母が違えど、確かにこのふたりは血がつながっているのだと、あまり褒められたことではないが実感させられる。  グレイも一息つこうと、ゴブレットの中身をあおった。晩餐会の場は少し戸惑ったような空気が満ちたが、それでも「いつものこと」として淡々と給仕する小姓や侍女たちに、それほど騒ぐことでもないと思ったのか、比較的和やかな空気に戻りつつあった。  ――そして異変は緩やかに起きた。 (暑いな……)  グレイはそっと襟元を緩めた。とはいっても、だらしなくならない程度にボタンを外すだけだ。だがその動作に、ぴたりと動きを止める。同時に頭の中で警鐘が鳴った。  最初は人が大勢いるので、熱気で暑いのだと思った。しかし違う。そもそも寒冷地にあるこの城で、まだ春先のこの時期に暑いと感じることはあり得ない。それに気づいた瞬間、指先がかすかに震えているのが目に入った。そして心臓がどくどくと早鐘を打ち始める。 (毒か――!?)  グレイは咄嗟に、袖口の隠しに仕込んでおいた解毒薬を口に含んだ。だが毒の種類がわからない以上、ここに長居するわけにはいかない。エバンに診てもらい、今盛られた毒を解析し、的確な解毒薬を調合してもらう必要がある。  つとめて平静を装い、「姫君の様子を見てまいります」とリドヴィナにかこつけて退出する。皇帝は濁った目でちらりとグレイを見ただけで、特に引き止めることなく「好きにするがいい」とだけ言った。  広間を出て、エバンのいるであろう執務室に向かって歩き出したとき、ぶわりと冷や汗が出た。心臓が引きちぎられるように痛い。呼吸もそれとわかるほどに浅くなってきた。 (まずい……!)  広間から城の奥へと続く回廊を進むうちに、がくんと膝が落ちて大理石の床にしたたかに打ちつけた。視界はぐにゃりと歪み、もはや膝立ちでいるのが精いっぱい。壁に手をつけて立ち上がろうとするも、足に力が入らない。 「くそ……!」  もはや生まれたての小鹿のように、立ち上がろうとしては床に崩れ落ち、歩くこともままならない。呼吸は苦しく、思わず胸元を強くかきむしった。だが助けを求めようにも、このあたりはもともと行き交う人間が少ない。さらに今日の晩餐会に人が駆り出されているのもあって、まったく人が通らない。エバンが公的な要職にはついていないために、今日の晩餐会に出席できなかったのが仇となった。もう駄目か――そう覚悟したとき。 「殿下!?」  回廊に凛とした優しい声が響き、衣擦れの音とともに、グレイの傍に誰かがしゃがみこんだ気配がした。そして壁から引き離され、半ば仰向けるように体を抱え込まれる。まだら模様に点滅する視界の中で、見えたのは栗色の髪。そんな淡い色の髪をこの宮廷で持っている人間はただひとり。それでリドヴィナの膝に抱きかかえられたのだと理解した。  翡翠色の瞳が泣きそうに歪んでいる。リドヴィナが傍にいた侍女頭に「誰か……人を呼んできて」と伝えた。侍女頭が頷いて広間の方へ立ち去ろうとしたので、グレイは慌てて半身を起こす。それだけのことにさえ、ひどく全身が痛んだ。 「まて……呼ぶなら、エバン、を」  かろうじてそれだけを伝える。侍女頭はその指示に戸惑いつつも、しかし広間とは逆の方向、つまりは執務室の方向へと足を向けた。そこまで見届け、グレイは瞼を閉じる。「殿下!」とリドヴィナの自分を呼ぶ声さえ、どこか遠くから響いてくる錯覚にとらわれた。やがてそんな些細な意識さえも、闇へと強制的にからめとられ、引きずりこまれる。  最後にグレイが感じたのは、甘く優しい花の香り。  そしてなぜか、かちりかちりと歯車のまわる音が耳に響いた。
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