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第六節 ぬくもり
暗闇の中、誰かに手を引かれて、グレイは歩いていた。グレイの手首をつかむその手は、白くほっそりとたおやか。だが肝心のその人物の顔は――いや手以外のすべてが、一寸先も見えない暗闇に溶け込んでしまっている。
(母上、か?)
肖像画でしか見たことがない、もともとは宮廷魔術師だったという母親。豊かな黒髪、理知的でいっそ冷たいとも思える黒曜石の瞳、この国の雪のように白い肌、氷の彫像のごとき冴え冴えとした美貌。そのすべてはグレイに受け継がれていた。
毒で死んだ息子を連れに来たのだろうか。とてもそんな優しさは見受けられなかったがと、グレイはのどの奥で笑う。まったく、あれだけ油断はしないと思っていたのにこのざまとは。
だが今自分を導いている者が、死んだ母親にせよ、死神にせよ、どちらだってグレイには些末事だ。ただ己の油断で、あの愚かな叔父か、あるいは他の諸侯か誰かに負けた。それだけが事実だった。
その手に導かれた先には、暗闇をくりぬいたようにぽっかりと白い光が浮かんでいた。手は躊躇なくその方向へグレイを導く。その光に近づくにつれ、次第に暗闇は薄まっていった。やがてその手の持ち主が光に照らされ始め、逆にグレイは眩しさに目を細める。痛いほどに白く輝くその光の中へ、グレイを導いているのは――。
「リドヴィナ、姫……?」
そう呼びかけられて、リドヴィナがこちらを振り向いた刹那。
まばゆいばかりの白い光がいっそう強まり、グレイは強く目を閉じた。
◇◇◇
うっすらと瞼を押し上げる。ぼんやりとした視界に見慣れた天蓋が飛び込んできた。間違いなく己の部屋の寝台だ。やわらかな枕に沈んだ頭を横に向ければ、そこにいたのはエバン――ではなかった。思わずぎょっとする。意識は瞬時に覚醒したが、同時に頭は混乱を極めていた。声を出さなかった、いや正確に言えば出せなかったのだが、それは正解だったかもしれない。
なぜならそこにいたのは、健やかな寝息を立てているリドヴィナだったからだ。寝台の端に上半身を倒しているのを見ると、どうやら一国の姫君ともあろう女性が、床に座り込んでいるらしい。
何がなんだかわからないまま、リドヴィナのあどけない寝顔を見つめていると、扉が開いてエバンが入ってきた。寝台を見て、エバンはかすかに目を見開いた。そして安堵の表情を浮かべる。しかし、その顔に浮かぶ疲労の色は隠せていない。グレイはリドヴィナを起こさないよう、慎重に上半身を起こした。
「お目覚めになられましたか……」
「あれからどれくらい経った?」
掠れた声でたずねる。エバンは手にしていた椀をグレイに手渡しながら、姫君に配慮して小声で答えた。
「三日です」
「三日か……」
グレイは渡された薬湯を飲み干し、その苦さに思わず顔をしかめた。同時に自分の不甲斐なさに腹立たしさが湧き上がってくる。
「身代わりを立てたので、殿下がお倒れになったことに、誰も気づいておりません。姫君も殿下が身代わりとばれぬよう、そつなく振る舞ってくださったので」
宮廷魔術師の長であるエバンにとって、魔術を使って一時的に他人の容貌をグレイそっくりに似せることなど造作もない。とりあえずそのあとの行事も滞りなく終わったと知ったことで、多少は安心できた。
「犯人はやはり叔父上か?」
「はい。晩餐会で使用された食器から、情報を読み取りましたところ、殿下のゴブレットに毒が」
「だが事前に塗ることは不可能だぞ。どのゴブレットを誰が使用するかなど、それこそ父上ほどの地位でなければ決まってはいない。それに料理も毒見がいただろう」
「付け加えますと、ゴブレットだけでなく、テーブルクロスや床――さらに姫君のドレスにも毒が付着しておりまして」
「……は?」
グレイの頭が一瞬、凍り付いた。だがエバンの顔はちらとも笑っていない。ではリドヴィナが暗殺者とでも言うのだろうか。いや、もしそうならば、リドヴィナがここで寝息を立てているはずがない。
しばしあの日を思い出す。祝辞を述べる来賓や臣下、その他に自分たちのテーブルに近づいてきたのはいったい誰だったか。そしてグレイは、思い当たったひとつの推測を口にした。
「エバン、叔父上のゴブレットにも毒が付着していただろう?」
「ええ」
「なるほどな……」
グレイは乾いた笑いをもらした。まったく叔父上にしては珍しく手の込んだことをする。
食事や食器に毒を仕込むのは難しい。だが自分のものならば、話は別だ。まして叔父上は庶子といえども皇族。誰も身体検査などしないから、毒を持ち込むのは容易だっただろう。そしてそれを自分のゴブレット――正確には中のワインに仕込んだ。
あとは酔っ払ったふりをして、グレイの前でワインをぶちまければいい。あのときはリドヴィナのドレスに気を取られたが、あれだけ周囲に飛び散ったのだ。おそらくグレイのゴブレットにも、飛沫となった毒入りワインが入ったはずだ。相当な量を溶かし込んだか、あるいは毒性の強いものを選んだかはわからない。だが、飛沫が入った程度でグレイが三日寝込んだのだ。叔父の目論見もたまには当たるらしい。もしもグレイが解毒薬を服用していなければ、叔父は帝位を継ぐ未来を手に入れていただろう。
暗殺の謎が解けたところで、もうひとつの疑問が浮かんできた。
「で、なぜ姫君がここで寝ている? しかも床に座り込んで」
「解毒薬を調合したのは、姫君なのですよ」
「は?」
その答えにグレイは目を瞬かせた。解毒薬の調合をしたのが、リドヴィナ?
「エバン、お前、夢でも見ているのか?」
「確かに年ではございますが、そこまで耄碌してはおりません」
「……」
返す言葉もなかった。同時に沈黙が落ちる。茶目っ気もあるのだろうが、動かぬ表情のせいでそれが冗談に聞こえない老臣と、冷静怜悧で人形のようだと揶揄される皇太子。このふたりでは、今のやり取りが漫才にすらならない。
が、そのとき、リドヴィナが軽く身じろいだ。「ん……」と吐息とも寝言ともつかぬ音とともに、その双眸が開かれる。最初はぼんやりと焦点の合わなかった翡翠色の瞳が、徐々に世界を認識していく。そうして彼女はゆっくりと身を起こし、寝ぼけたような表情で目の前のグレイを見つめた。
「殿下……?」
「姫君、おはようございます」
リドヴィナはぱちぱちと瞳を瞬かせる。そして、状況が飲み込めると、泣きそうに顔を歪ませた。
グレイが最後に見た彼女は、今にも泣きそうだった。それは今も同じだ。けれど違うのは、最後に見たときは不安と心配がその瞳に浮かんでいたのに、今は安堵と喜びに満ちていることだ。
「お目覚めになられて、よかった……」
リドヴィナの口からこぼれた言葉に、今度はグレイが瞳を瞬かせる番だった。
グレイは今まで、人の表情を幾度となく観察してきた。特に叔父一派は、暗殺が失敗してグレイが生きていると知るたび、「皇太子が無事でよかった」と口先でのたまっておきながら、その瞳の奥に落胆の色が見てとれた。
それなのに姫君の表情には、一片もそれはない。グレイが目覚めたことを、純粋に喜んでいるようにしか見えなかった。今までそんな表情を浮かべた人間を、エバン以外には知らないグレイは戸惑った。姫君のまとう優しさとあたたかさだけが、グレイの中に満ちていくようだった。
「解毒薬を調合なさったのは、姫君だとお聞きしました。姫君の手を煩わせてしまって、申し訳ありません」
「いえ、そのようなこと、たいしたことではございませぬ」
グレイの礼に、リドヴィナは頭を横に振った。起きたばかりで未だ力の入らない手を、彼女のやわらかな手につつまれる。自分の体温がよほど低かったのか、彼女の手が触れただけだというのに、彼女の熱が流れ込むように一気に手や顔が熱くなった。常ならば誰かに触れられることは嫌うが、その手を無下に振り払うことはできず――どころか、なぜか逆にこの手を離しがたく思われた。もっとそのぬくもりを感じていたかった。
いつの間にかエバンはこちらに背を向けて、窓の外を眺めているようだった。
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