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幕間 ひとりごと
「くそ、グレイのやつめ……。生き延びているとは」
アルトは忌々しげに呟いた。その手には華奢なガラス細工の小瓶。窓から差し込む朝日に照らされて、きらきらと輝く。だが中に入っているのは劇薬だ。
肘掛に頬杖をつきながら、何度も中身を眺めるアルトの碧眼が一瞬、ここではないどこか遠くを見やるように細まった。
――お前が私の息子か。
アルトが幼少の頃、母から引き離されてこの宮廷に初めて連れてこられたとき、父親である先帝はそうのたまった。今でも覚えている、あの冷たい視線。そしてそのすぐ傍には、当時皇太子であった異母兄。彼はにやにやとこちらを眺めていた。
アルトは先帝が踊り子に産ませた子供だった。つまりアルトの母親は妾ですらなかった。だから七つ八つになるまで城下町で育った。
それなのに、なぜそんなアルトが宮廷に連れてこられたのか。答えは簡単だった。異母兄が愚鈍だったからだ。
先帝は幸いなことに暗愚ではなかった。だから血筋にこだわらなかった。己の血さえ引いていれば、母親の血筋は問わない――そう考え、より優秀な方に帝位を継がせようとしたのだ。そしてアルトの後見として、当時の副宰相であり今の外交大臣のエイワーズ・アルドリッジとその一族がついた。
だがアルトがここへ来てまもなく、先帝は急死する。暗殺ともいわれているが真実は定かではない。結局、幼すぎるアルトは即位できず、年の離れた異母兄が即位することになった。
本来ならその時点でアルトは町に帰るか、僧院に入るべきか、あるいはアルドリッジ一族の養子となるのがよかったのだろう。だがアルトは皇子の身分のまま、宮廷に取り残された。それというのもアルドリッジ一族と異母兄が原因だった。
このまま異母兄に子供ができなければ、アルドリッジ一族が後見しているアルトが皇帝になるかもしれない。もともと先帝はそれを望んでいたのだし、そうすればアルドリッジ一族は傀儡の皇帝を手に入れ、宮廷を、ひいてはこの国を支配できる。
そして異母兄との年の差を考えれば、その可能性はじゅうぶんにあった。実際、異母兄の結婚は遅く、ようやく娶った皇后とも不仲だった。だから子供などできるはずもなかった。
そのうちアルトが後継と目されるようになり、事実上の皇太子になった。そんな折の皇后の懐妊と出産。皇后は産褥で死んだが、子供は宮廷魔術師どもを味方につけ、今日まで生きている。
アルトとて理解はしていた。己が君主にふさわしいとは思わない。兄よりはマシ、所詮その程度でしかない。けっして甥のグレイより優れているとも思わない。何より異母兄にも自分にも、本当の忠誠など誓った臣下などいない。アルドリッジ一族やそれに従う貴族たちは、自分たちに都合のいい傀儡の君主を欲しているだけだ。今の妻とて、アルトではなく、皇后になったときに振りかざせる権力を目当てに嫁いできたと言っても過言ではない。
けれども領地も与えられず、妻とその実家の後ろ盾で成り立っている生活では、いつ追放されるかわかったものではない。生まれてから命を狙われているグレイは、アルトを許しはしないだろう。彼が皇帝になれば、よくて追放、悪ければ死刑。あるいはアルドリッジ一族に見放される。いずれにせよ皇帝になれなければ、アルトはどこかで野垂れ死ぬのが落ちなのだ。
アルトは小瓶を弄ぶのをやめ、暖炉に放り投げた。今さら引き返すことなどできやしない。この道は自分で選んだことではないし、甥を特別嫌っていたわけでもない。暗殺自体もアルトが積極的に動いているのではなく、エイワーズたちが策を練っている。だからといって、舞台を降りることはもう周りが許さない。
小瓶は軽やかな音を立てて砕け散り、中の劇薬ごと火中に溶けていった。
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