第七節

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第七節

「今日から政務に戻ろうと思います」  目の前に座っていたリドヴィナにそう告げる。リドヴィナは手にしていたカップを戻し、「無理は禁物ですよ」とやんわりと拒否の意を示しつつ、心配そうに返してきた。その反応は無理もない、なぜならグレイが生死の境をさ迷っているところを見たのだから。  グレイがようやく寝台から起きられるようになったのは、披露目から二週間過ぎたころだった。その二週間、グレイが体を動かせるようになるまで看病してくれたのは、リドヴィナだった。  エバンの話によれば、毒薬はこの国で入手できないものだったという。グレイがある程度毒慣らしの訓練をして、くわえて異変の直後に解毒薬も服用していたにもかかわらず、生死の境をさ迷ったのは、未知の毒が使われたからだった。  エバンは毒の解析までできたものの、そこから解毒薬を作るすべがなかった。だがリドヴィナはそれを知っていた。そこでエバンは彼女に解毒薬を調合してもらい、彼女がグレイにつきっきりで面倒を見てくれた。  しかし一国の姫君がなぜそんなことができるのか。不思議に思って訊ねたところ、彼女はこう答えた。 『公務の一環で、修道院や尼僧院の救護施設で手伝いをしていたので』  それも単なる手伝いではなく、きちんと薬や怪我の手当の仕方を学んでから公務に当たるのだという。王族が率先してそのように動くなど、この国ではありえないことだったので、ひどく驚いたのを覚えている。しかし何はともあれ、リドヴィナのおかげで命を取り留めたことに間違いはない。 「自室でできる仕事はやっていましたが、それ以外の仕事がたまっていますから。それにあまり寝てばかりでは体もなまってしまいます。それよりも」  グレイは動かしていたナイフを置き、部屋を見渡した。この二週間でグレイの自室で、リドヴィナと朝食夕食をとるのが当たり前になった。それだけではなく、部屋の窓が開け放たれて空気が入れ替えられること、朝摘みの花が飾られること、部屋に誰かがいて他愛無い話をすること――そういったことが日常になった。  初めはグレイの体調を考えて、どちらかといえば医療的な意味合いで始まったことに違いない。だが不思議と居心地がよく、グレイは好きにさせていた。以前なら自室に長時間侍女さえも置かなかった。無論、警戒も兼ねてのことだったが、なぜかリドヴィナにはこの部屋にいてほしかった。夜、寝るときにリドヴィナが自室へ戻るのを惜しむほどに。 「それよりも、この二週間のお礼をしたいのですが……。何か要望はありますか?」 「え、っと……ですが、わたくしが好きでやっていたことですし……」 「私が姫君に礼を尽くしたいのですよ」 遠慮がちなリドヴィナにそう畳みかければ、少し考えこんだのち「ではこの国を案内していただけますか?」と返ってきた。 「そんなことでよろしいのですか? もっと何かあれば用意させますが」  初日と同じく形のない――無欲といっても過言ではないその願いに、グレイは拍子抜けした。けれどリドヴィナは穏やかに微笑みながら首を横にふる。 「でももし、もっと多くを望んでよろしいのでしたら、殿下。どうか敬語を外していただけると嬉しいです」  リドヴィナの頬が薄紅に染まる。消え入るような小声で、はにかむようにそう言うものだから、グレイのほうが言葉が出なかった。かろうじて「わかりました……いや、わかった。善処、する」と答えるのが精いっぱいだった。  なぜかグレイの心臓がとくりと音を立てる。ドレスや宝石を望まれれば、「わかりました」ですんだのに。いや、そうでなくとも敬語をはずすなど、エバン相手にもやっていることなのに。エバンとリドヴィナとで、いったい何が違うのか。  リドヴィナのその望みは、グレイの奥底、今の今まで誰も――グレイさえも知らなかった場所に溶け込んでいく。この二週間で毒に侵された情けない自分を晒してきたはずなのに、そんなことさえどうでもよくなってしまうほど、今のしどろもどろな自分を見せたくなかった。 「外出の件は考えておきます……おく。とりあえず、行ってくる」  がたりと席を立ち、執務室に向かう。リドヴィナの「行ってらっしゃいませ、お気をつけて」という声に、グレイは気恥ずかしさが勝って応えることができなかった。
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