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十年前②
脂のにおいの充満する「好風亭」の店内。そのテーブル席で僕と伊達さんはラーメンをすすっていた。
伊達さんはよくこの店でラーメンを僕におごってくれた。
時刻はもう七時になっていた。サラリーマンや学生を中心に、客足が増え始める頃だ。今日もその例にもれず、店内はとても賑わっていた。
頑固おやじを絵に描いたような店長が、大きな声で店員に指示を飛ばす。父性を感じるその光景が、僕がこの店を好む理由の一つだった。
僕は顔を上げ、伊達さんのほうを見やる。白髪交じりの長髪を後ろに束ね、黒のスーツに身を包んでいる。
「……何だ?」
「いえ、なんでもないです」
暑苦しい恰好だと思ったのを、口にはしなかった。
伊達さんは普段そのスーツに合わせて、サングラスを着用しているのだが、食事の際には、必ずそれを外す。
そのせいで、彼の左目をえぐる古傷が余計に目立ってしまっていた。
周りの客がこちらを意図的に見ないようにしているのを感じ取れた。
本人曰くそれは「若気の至り」の傷だそうだが、その傷跡は、彼が堅気の人間でないことを分かりやすく物語っていた。左の視力は、ほぼ皆無らしい。
「そういえば、伊達さんの苗字って本当の苗字じゃないですよね?」
「……どうしてそう思うんだ?」
「いや、隻眼の人の名前が『伊達』なんて、どう考えても、できすぎですよ」
「流石にバレるか」伊達さんは苦笑する。
「はい、よっぽどの間抜けでなければ、流石に」
「本名、知りたいか?」
僕は箸とレンゲを置き、数秒考えた後に答える。
「いや、それも野暮なので遠慮しておきます」
そう答えるのと同時に、ガラガラと音を立てて店の入り口が開く。
小学校低学年くらいの男の子と、その父らしき人が連れ立って入ってきた。「好風亭」のメインターゲットではない、珍しい客層といえる。
「お腹すいた~!」
「はいはい、もうすぐ食べられるからね」
そんな会話をしている親子を尻目に、伊達さんが口を開く。
「お前も大変だ」思い出したように、彼は僕に言う。
「まあ、大変でないと言えば嘘になりますね」と正直に答える。
俺がこの世で最も許せないのは嘘をつく人間だ、というのは他ならぬ伊達さんの台詞だった。
下手に誤魔化したりすれば、どうなるか分かったものじゃない。
先ほどの親子がテーブル席に座り、注文をしようとしていた。
「パパ、早く!」
「う~ん、ちょっと待ってね……」
息子のほうは早くに何を食べるかを決めたようだったが、父のほうは決めあぐねていた。息子が頬を膨らませている。
空腹を表す手段なのだろうか、床に届いてない両足を、プラプラと前後に揺らしていた。
「猫って動物、いるだろ?」伊達さんが言う。
「猫って、あのかわいらしい動物の、猫?」
「ああ。その猫だ」
「いますけど、猫がどうかしたんですか?」急に何の話をし始めるのか。
伊達さんは口の中の麺を咀嚼し終えてから、再び話し始める。
「俺は猫が好きなんだが」
可愛いな。見た目にそぐわず。
「しかし、野良猫のオスにはどうにも納得がいかないんだ」
「オスに……? どうしてまた」
「あいつら、ほとんど子育てをしないらしい。オスは単独で行動する。そしてメス猫と仔猫だけが群れを成して生活する。ヤるだけヤって、後は知らんぷりだ」
なるほど、と僕は心の中で苦笑する。要するに伊達さんは、僕の父を非難しているのだ。
「父親には、もううんざりだろう?」伊達さんが、先程とは打って変わって、随分と直接的に、僕に問いかける。
「確かに、あんな奴もう嫌です。働かずにギャンブルばかり。それに伊達さんのところから、あんなに金を借りていて……」
伊達さんが幹部を務める会社はいわゆる「裏の」金融会社で、この町及びその周辺で幅を利かせていた。
そして、ギャンブル狂の父はその会社から大量の借金をしている。そういった関係で伊達さんと父、そして僕は知り合った。
「でも」と僕は続ける。
「でも?」伊達さんの眉がぴくりと動く。
「あんな奴でも、僕のたった一人の家族なので」
伊達さんは一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの仏頂面に戻った。
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