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十年前③
僕の家の玄関には、一つ、古い野球ボールが飾ってあり、僕と父はそれを「幻のホームランボール」と呼んでいる。
忘れもしない。あれは、僕が小学校二年生のときだった。
野球少年だった僕は、香田というプロ選手に憧れていた。
そして当時、地元の球場に香田の属するチームが試合をしにやってくる、というめったにないイベントがあった。
僕は歓喜したが、もちろん観戦に行けるような金が家にあるわけもなく、父に頼んでみても、「無理だ」とつき返され、しまいにはこう言われた。
「球場に行っても、むしろボールが小っちゃくて、見えづらくなるだけだぞ。そんなんより競馬に行け、競馬に」
夢のない親だった。
試合当日。現地へ観戦にこそ行けないが、せめて応援だけは必死にしようと僕はテレビをかじるようにして、そのゲームを観た。
試合は劣勢だった。香田のチームは、初回に入れられた二点を、無得点のままひたすら追っていた。
七回の裏、ランナー二、三塁の場面。バッターは香田だった。
「カッ」という心地よい音。熱を帯びた歓声をも飛び越える場外ホームランだった。ブラウン管越しに見たあの白く美しい軌道を、僕は一生忘れないだろう。
「うおおお!」
狭い部屋の中、僕は一人で絶叫した。
彼のスリーランが決め手となり、チームは勝利した。
「帰ったぞ~」
歓喜の余韻に浸っていると、父が帰宅してきた。僕は玄関まで出向く。
「どこ行ってたの? 香田、凄かったのに~。あのホームランを見ないなんて、もったいないことしたね」
「そんなにもったいないことをしたか、俺は?」
「うん。どこで油を売ってたのか知らないけど、あれはすごく感動したよ」
「でもな、俺はホームランを見ることよりも、もっと凄い体験をしてきたぞ」
「え、どういうこと?」
父が差し出した手には、何故かボールが握られていた。
「何、これ?」
「何だと思う?」父はにやにやと笑う。
ホームランを見るよりも凄い体験。握られた正体不明のボール。
「まさか……」
「香田のホームランボール」
父はにやりと笑って僕にそう告げた。
脳天を稲妻が駆け巡った。僕は喜びのあまり言葉も出なかった。もしかしたらそのとき、泣いていたかもしれない。
「球場の近くを歩いてたら、たまたま降ってきたんだよ」
「ラッキーすぎるよ!」
「お前にやるよ」
「いいの!?」
「もちろん。ほれ」
あまりに嬉しくて、その夜はボールを抱いたまま眠ったのだが、布団の中で僕はある違和感を抱いた。
何かがおかしい。
その違和感の正体に、僕はまもなく気付いた。
そのボールはプロ野球では使われるはずのない「軟式球」だったのである。父は嘘をついたのだった。
しかし、父なりに気を遣った結果なのかもしれない、と考えると、そのボールをおざなりに扱うことはできなかった。僕は子供の頃から、父に甘かったのだ。
僕は玄関にそのボールを飾ることにした。
だからといって僕が父に失望したのは言うまでもなく、その失望は今もなお僕の心の中にある。
そんなボールが飾ってある玄関で、僕は靴を脱ぐ。
「ただいま」返事はない。
さては寝ているな、と思い居間に入る。
案の定、父は酔いつぶれ、テーブルに突っ伏し寝ていた。
酒臭い。
なるべく離れた場所から、父の肩を揺する
「起きろ、寝るなら布団で寝てくれ」と声をかける。
「おお、一馬」と父が答える。
「おお、じゃないよ。まったく」
「いつかお前は俺に感謝するときが来るからな。感謝させてやるから。それまで待ってろ。な?」と続けた。
それは、酔ったときの父の口癖だった。
「感謝ねぇ……。まともに稼いでから言ってくれ」
「とにかく! お前は絶対いつか俺に感謝するんだよ!」
「『ホームランボール』だって、結局、幻だったじゃないか」
悪態をつきつつ、僕は父の背中に毛布をかぶせた。
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