十年前④

1/1
7人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ

十年前④

 それから数週間後。その日は放課後のバイトが無かったのだが、少しだけ寄り道をして帰ろうと思い、本屋へ向かっていた。  参考書を買うためだ。大学に入るための金が無いので、勉強をし、なんとか推薦入学ができたら、と僕は考えていた。  自転車を走らせていると、伊達さんの後ろ姿を見つけた。スピードを上げ、前方を歩く彼に追いつく。 「伊達さん」 「うぉっ! ……なんだ、一馬か 」 「ど、どうかしたんですか?」  伊達さんとは長い付き合いだが、彼が焦っているのを見るのは初めてだった。らしくもない。 「いや、なんでもないんだ」  僕は自転車を降りる。伊達さんに促され、近くにあったベンチに座る。  伊達さんは何か疲れているようだった。どうしたというのだろう。 「何かあったんですか?」 「いや、特に何も、だな」 「そうなんですか。何か様子がおかしいと思ったんですけど、気のせいでしたかね」 「いきなり声をかけられて驚いただけだよ。恥ずかしいから、あまり掘り下げないでくれ」  本人が何もないというならば、と僕はこれ以上追及するのをやめた。  そして、ふと思い出した新たな話題を投げかける。 「おかしいと言えば、うちの父もここ数日おかしいんですよ」  僕が言うと、伊達さんの目が一瞬鋭くなった気がした。 「おかしい、と言うと?」 「最近なぜか競馬とかパチンコとかに行かなくなったんです。酒も飲んでいる様子がないし……」  近頃の父の行動は、息子である僕の眼にも奇怪に映った。  それはよい変化なのかもしれなかったが、しかし僕の心を不安にさせてもいた。 「……なるほどな」伊達さんが相槌を打つ。 「それだけじゃなくて、急に俺の方を見て、何か言いたげな顔をするんです。で、結局何も言わないんですよね」  そこまで聞くと、伊達さんはため息をついた。 「まあ、いろいろあるんだろ。奴にも」  そして、人のことは言えないがな、と彼は小さく付け加えた。 「伊達さんには、家族いないんですか」  ずっと気になっていたことだった。 「ああ、いない」と彼は言う。 「本当ですか? 案外、嫁と子供を溺愛してたりして」  と僕は、にやけながら問う。 「いないと言ったらいないさ。俺がこの世で最も許せないのは嘘をつく人間と……」 「?」 「……いや、なんでもない」  伊達さんはゆっくり立ち上がり、じゃあな、と言って歩き出した。  途中、伊達さんは一度だけ振り返って僕の顔を見た。    それは最近父がよくする、あの表情にそっくりだった。  本屋で目当ての参考書を買った後、夕飯を作るために、僕は急いで帰宅した。 「ただいま」  返事はない。家の中は、うるさいほどに静まりかえっていた。 「寝てるのか?」  そう呟き、ふと横を見やる。すると、そこにあるはずのものが無い。 『幻のホームランボール』が、無くなっていた。  僕の背筋に、ねっとりとした嫌な汗が噴き出した。何だろう、この嫌な感覚は。  靴を脱ぎ、ゆっくりと居間へ向かう。恐る恐る戸を開ける。薄暗い部屋の中。  僕は、ちゃぶ台の上に一枚の紙が置いてあるのを見つけた。 「何だ、これ……?」  乱雑な字が、紙面に散らばっていた。  それは、父から僕に当てた書き置きだった。 『父さんは出て行く。さようなら。一馬へ』 「えっ!?」  僕は慌てて、家中を探す。  しかし家からは、父の荷物がきれいさっぱり消え失せていた。  明かりのない居間に、立ち尽くす。静けさの沼に、僕はもがくこともなく沈んでいった。 「なんで……」      それ以降、僕が父と出会うことは二度となかった。  そしてこの日を境に、伊達さんもこの町から姿を消した。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!