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十年前④
それから数週間後。その日は放課後のバイトが無かったのだが、少しだけ寄り道をして帰ろうと思い、本屋へ向かっていた。
参考書を買うためだ。大学に入るための金が無いので、勉強をし、なんとか推薦入学ができたら、と僕は考えていた。
自転車を走らせていると、伊達さんの後ろ姿を見つけた。スピードを上げ、前方を歩く彼に追いつく。
「伊達さん」
「うぉっ! ……なんだ、一馬か 」
「ど、どうかしたんですか?」
伊達さんとは長い付き合いだが、彼が焦っているのを見るのは初めてだった。らしくもない。
「いや、なんでもないんだ」
僕は自転車を降りる。伊達さんに促され、近くにあったベンチに座る。
伊達さんは何か疲れているようだった。どうしたというのだろう。
「何かあったんですか?」
「いや、特に何も、だな」
「そうなんですか。何か様子がおかしいと思ったんですけど、気のせいでしたかね」
「いきなり声をかけられて驚いただけだよ。恥ずかしいから、あまり掘り下げないでくれ」
本人が何もないというならば、と僕はこれ以上追及するのをやめた。
そして、ふと思い出した新たな話題を投げかける。
「おかしいと言えば、うちの父もここ数日おかしいんですよ」
僕が言うと、伊達さんの目が一瞬鋭くなった気がした。
「おかしい、と言うと?」
「最近なぜか競馬とかパチンコとかに行かなくなったんです。酒も飲んでいる様子がないし……」
近頃の父の行動は、息子である僕の眼にも奇怪に映った。
それはよい変化なのかもしれなかったが、しかし僕の心を不安にさせてもいた。
「……なるほどな」伊達さんが相槌を打つ。
「それだけじゃなくて、急に俺の方を見て、何か言いたげな顔をするんです。で、結局何も言わないんですよね」
そこまで聞くと、伊達さんはため息をついた。
「まあ、いろいろあるんだろ。奴にも」
そして、人のことは言えないがな、と彼は小さく付け加えた。
「伊達さんには、家族いないんですか」
ずっと気になっていたことだった。
「ああ、いない」と彼は言う。
「本当ですか? 案外、嫁と子供を溺愛してたりして」
と僕は、にやけながら問う。
「いないと言ったらいないさ。俺がこの世で最も許せないのは嘘をつく人間と……」
「?」
「……いや、なんでもない」
伊達さんはゆっくり立ち上がり、じゃあな、と言って歩き出した。
途中、伊達さんは一度だけ振り返って僕の顔を見た。
それは最近父がよくする、あの表情にそっくりだった。
本屋で目当ての参考書を買った後、夕飯を作るために、僕は急いで帰宅した。
「ただいま」
返事はない。家の中は、うるさいほどに静まりかえっていた。
「寝てるのか?」
そう呟き、ふと横を見やる。すると、そこにあるはずのものが無い。
『幻のホームランボール』が、無くなっていた。
僕の背筋に、ねっとりとした嫌な汗が噴き出した。何だろう、この嫌な感覚は。
靴を脱ぎ、ゆっくりと居間へ向かう。恐る恐る戸を開ける。薄暗い部屋の中。
僕は、ちゃぶ台の上に一枚の紙が置いてあるのを見つけた。
「何だ、これ……?」
乱雑な字が、紙面に散らばっていた。
それは、父から僕に当てた書き置きだった。
『父さんは出て行く。さようなら。一馬へ』
「えっ!?」
僕は慌てて、家中を探す。
しかし家からは、父の荷物がきれいさっぱり消え失せていた。
明かりのない居間に、立ち尽くす。静けさの沼に、僕はもがくこともなく沈んでいった。
「なんで……」
それ以降、僕が父と出会うことは二度となかった。
そしてこの日を境に、伊達さんもこの町から姿を消した。
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