前書き

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前書き

いつからだろう、僕の小説が君のことを中心にその物語を展開し、虚構の世界を広げていったのは。 いつからだろう、僕と君がこの関係性を何度も問い直し、答えを出す度に新しい問いが生まれ、そしてそれを何度も何度も繰り返し始めたのは。 いつからだろう、僕がこんなにも弱くなって、1日の三分の一は君のことを考え出したは。 僕は確かに欲しがったのだ、形のないそれを。 僕は確かに悔いたのだ、君への思いを。 僕は確かに知っているのだ、僕自身のことを。 愛について初めて考え始めたのは小学六年生の時だった。別にそれは誰かを好きになったということではない。彼女なら小五の時に既にいた(確かに告白はしたがあれが本物の恋愛だったかは怪しいものだ)。ただこの世界を、自然を包括し全てを認める「大いなる愛」なるものが存在すると確信していた。 太陽が、その象徴に最も近かった。 中国武術を題材とした漫画の最終巻の、最後のページに書かれていた引用とそのシーンを、だから僕は忘れられない。 「何ものをも求めないものは全てを得、自我を捨てると、宇宙が自我になる」 エドウィン・アーノルドのその言葉の意味を、もちろん一クソガキの分際で分かるはずもなく、しかし「自我」やら「宇宙」やら大層な言葉を使う名言をかっこいいと思ってしまうあたりやはり何も考えないただのクソガキである。 さらにかっこいいのが、全てを悟った主人公が、偉大なる師匠である自らの祖父と山の上で対話をし、「大いなる愛」とは何かという問いに対して、彼が指を指したのが太陽であった(勘のいい読者はもう私が何の漫画のことを言っているのか既に分かるだろう。わからない方は「拳児」とググってみてほしい)。 そんな主人公の姿がかっこよく僕の目に映らないはずもなく、中学にもなれば僕は国語の作文などで「大いなる愛」について書くようになった。万物全てを包括し、全てを許し、全てを暖かな心で迎え入れる大いなる力、「愛」。人は僕を愛に飢えているマセガキか何かだと思っていたらしいが、僕からしてみれば大真面目で、そんな神様のような超人のようなフォースがこの世界のどこかしらにある、そしてそれを僕が知れば全てが救われるような気がした。 でも年を取り、高校を卒業する頃に僕にわかったことは、そんな大それた概念的幻想などではなく、もっと小さく、しかしもっと偉大な「愛」の数々だった。父母からの愛、友への愛、師からの愛、先輩後輩への愛、僕自身の愛。僕が多分探し求めていたのはそういうもので、決して測れるものではないけど僕はその数々の愛をちっぽけなものだと見誤ることもなく、僕はたくさんの人たちに感謝するとともにその愛を他の誰かにも分けなくてはいけないと自覚させられた。誰かを敬うこと、誰かに優しくすること、誰かに手を貸すこと、全てが僕の愛から発せられ、誰かからの愛が僕に喜びや嬉しさを与えてくれる。僕はそんな愛の相互作用的な関係性を、二元論的な関係性をとても美しいものだと実感し、「ああ、これこそまさに僕が望み手にいれたかった『大いなる愛』の形に違いない」と心から認めようとした。 ただ一つ、たった一つの例外をのぞいて。 僕が大いなる愛を問い始めて、きっとその半分は君のことを考えていただろう。だから僕は再び問い直さなくてならない、「愛」とは何か、君は誰か、そして僕が何者であるかを。 答えを探し出して数年経つ。僕はこの行為に「旅人」と名付けてきた。幾多の小説に何々の旅人と銘打ってきた。そしてそれぞれに何か哲学的な問いを問いてきた。 だがもう、それも今日で終わりだ。 さらばだ、旅人よ、さらば、きみよ、そしてさらばだ、僕よ。 もう僕は答えを探すことに、疲れてしまったようだ。
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