石炭政策(ヤマ元執行部)

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 第二次大戦中、船腹不足等で石炭を満足に運べないからと、八幡製鉄所に近い筑豊や三池、西彼杵の炭鉱、京浜工業地帯に近い常磐の炭鉱、輪西製鉄所に近い石狩の炭鉱に、樺太や釧路の炭鉱の炭鉱マンと資材を転用すると言う急速転換政策がとられた。この炭鉱マンの父親と祖父も急速転換政策で、釧路から三池に急速転換され、釧路から遠く離れた九州の三池で空襲や事故の恐怖におびえながら、採炭に従事していた。一緒に、三池に急速転換された仲間には、空襲で死んだり、坑内で事故死した者もいたと、子供の頃に聞かされていた。戦時中、戦後と国策に翻弄されただけに、叩き台とは言えポスト八次の内容には、怒りを覚える。 会社の管理職と一緒に、坑内外を定期的に巡回する保安推進委員の一人でもある掘進係員の赤池敏夫が、 「掘る炭は、まだまだある。閉山する理由がない。石油ショックで泡喰ったのを忘れたのか!」 と、語気を強めて怒りを露わにする。  掘れる炭がないわけではない。いや、むしろ、積極的に掘るための準備を進めているくらいだ。ヤマには、まだまだ掘れる炭が豊富にある。第八部内の炭量は、向こうニ、三十年は黙って掘れるだけの量がある。  掘れる炭を死蔵するのが、まともな政策と言えるのか、炭鉱を全て閉山して、彼らが描いた青写真の通りにことが進むのか?と言う、疑問は直ぐに浮かんでくる。 「連中が望むように、閉山してやろう。石油ショックでひどい目に遭い、ソ連のチェルノブイリ原発が爆発して、本当なら方針転換するべきじゃないか?無責任に方針転換しないというのなら、こっちも責任なんて持つことはない。連中がどんな青写真を描いているのかは知らんが、尻拭いを押し付けられるのは、もう御免だ」 と、石油ショックの前後の右往左往を見てきた執行委員は、官僚の尻拭いはしない、勝手にしろと、見捨てるように言う。 「本気で言っているのか?」 と、炭鉱労中央執行委員が聞く。国が切り捨てるのなら、こっちも国を見限ると言う極端な意見が出ても仕方がないが……  安岡春採炭砿労働組の執行委員長は、全員大会の前にポスト八次の叩き台についての説明を受け、政策の方針転換を強く迫るか、閉山を受け入れて閉山交付金増額等の条件闘争を行うか、それとも茨の道を行くのを覚悟で政策終了後も操業を続けるために条件闘争を行うのか、考えられる三つの選択肢の素案を作成するつもりでいた。しかし、ポスト八次の内容に我を忘れて、目的とは違うことを始めていた。 「いい加減にしろ!ここでグダグダ言ったって始まらん!これは、執行部だけで決めていい問題じゃない。全員大会で、ポスト八次を、引っ繰り返すのか、受け入れる場合は有利な条件を引き出すのか、茨の道を行くのを覚悟で政策終了後も操業を続けるのかを、決める。組合員に、基本方針はこうだと示すぞ」 と、一喝し、役割を果たせと言う。
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