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人類の英知。
喜びと発見の宝庫、かけがえのない財産。
呼び名は何だっていいが、古来より図書館は神聖な場所だった。
漂う重厚な静けさと、ずらりと並ぶ本を眺めるひととき。
それが幻想だと知ったのは、僕が国立第一図書館に来てからだった。
そこにあるのは混沌と汗と涙、筋肉痛になるくらいの疾走感と目の回る忙しさ、それから侍の幽霊との理不尽な出会いだった。
***
『くぉら! 待たぬかおのれ―――っ!』
後ろからそう怒鳴り僕を追いかけてくるのは侍の幽霊だ。
僕はそれを思い切り無視し、狭い本棚のあいだを走り逃げていく。
早くも息切れしはじめていたが、彼に捕まるわけにはいかず、こちらも必死だった。
僕がいまいるのは書庫フロア、地下20階。辺りはとてもうす暗い。
広大な敷地に本のぎっしりと詰まる棚が林立し、人の姿は僕しかない……いや、正確には僕の後ろにもう一人いる。
走りながら棚の曲がり角で振り返ったら、数メートル離れた後ろを侍の幽霊が追いかけてきていた。
着物をはためかせ憤怒の表情でこちらへ全力疾走してくる。
太く凛々しい眉、目をカッと見開き睨みつけてくる、その頭にはちょんまげが。
僕はその幽霊の名前まで知っていた。彼は文次郎だ。
この書庫に棲みつく地縛霊であり、そうしてなぜ文次郎が僕を追いかけてくるのかというと、
『その本を置いていかぬか! 小僧止まれ――っ!』
と、まあそういうことだ。
僕が左手に持っているこの一冊、これが文次郎の目当てだ。僕からこの本を取り返そうと彼はやっきになって追いかけてきている。しかし僕の仕事はこの本を無事に図書館の上階へ、つまりは書庫から閲覧コーナーへと送り届けることだった。
(待てと言われたって、止まれるわけないだろ!)
なんとしてもこの本は上階に送り届けなければならない。そのために僕は文次郎に捕まるわけにはいかないのだ。
幸いにも目指すゴールは目の前にあった。上階へ本を送るための機械……搬送機(シューター)はもうすぐ近くに見えている。この中に本を入れてスイッチを押してしまえば、僕の仕事は無事完了だ。文次郎もこの本に対して諦めがつくだろう。
『止まれと言っておるのだ! 止まらぬか――っ!』
「誰がっ……はいそうですか、と!」
(止まらないってば!)
なにしろあともう少しだった。文次郎の足は速いが僕だってそう負けてない。短距離選手のごとき疾走を披露してやっとの思いで荷運び用ゴンドラの前へたどりつく。文次郎からはまだ距離があった。
(いける!)
白いプラスチック製の箱に本を入れて、急いでスイッチを押そうとした時だ。
『待てと、言っておるのが分からぬか――っ!』
「ぐぇっ!?」
後ろからキャスターつきの梯子が足元へ勢いよく転がってきた。文次郎が後ろから梯子を蹴飛ばしてきたのだ。スイッチに気を取られていた脛にそれは見事に当たり、激痛に床をのた打ちまわるはめになる。文次郎の草履がゆっくりと近づいてくる。
「~~~~っ! お、お前ぇ……!」
『ふふふ。待てと言うたに、待たぬお主が悪いのだぞ』
文次郎は得意満面の笑みだった。彼の手には必死にここまで運んできた本が握られている。
(やられた! 本を取られた!)
弁慶の泣き所を致命的に痛めてうずくまっていると、文次郎は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
『なんだ、それくらいのことで情けないのぉ』
「くそ、お前がやったんだろう!?」
腹立ちまぎれに梯子を文次郎の方へ蹴飛ばすが、憎らしいことにするりと余裕でかわされてしまった。
『おのこがそれくらいのことで涙とは。ほれほれ、取れるものなら取ってみぃ』
目の前でひらひらと本をちらつかされている。
(くそ! ちきしょう! このっ)
「いい加減にしろよ文次郎! こっちは仕事なんだから」
「文次郎って?」
急に女性の声が聞こえてきて僕は口をつぐんだ。
すぐそばに先輩の兎(うさぎ)さんが怪訝な顔で立っていた。
くりとした目を数回瞬かせ、彼女は諦めたように首を振り荷運び用ゴンドラへ近づいていった。集めてきた本を白いプラスチック製の箱に入れ、上階へと送っている。
「あ、いや……えと」
僕は慌てて文次郎を探したが、幽霊の姿はあとかたもなく消えていた。本を持ったまま一瞬にして消えてしまった、さすがは幽霊である。
「小雀(こずめ)くん、探してた本見つからなかったの?」
兎さんは薄らと滲んだ額の汗をぬぐいつつ、手首の時計を見て聞いてくる。僕が本を取りに行ってから今までにかかった時間を計っているのだろう。
「は、はい、すいません」
僕は内心ほぞを噛む思いだ。探していた本は見つかりここまで持ってきた。けれどそれを文次郎に盗られてしまったのだ。『本は侍の幽霊に持って行かれました』とは、たとえ本当のことであっても口さ裂けても言えない。
「仕方ないね。私が探してくるからその紙貸して」
「はい……」
本の情報が書かれた紙を渡すと、兎さんはすぐに走り去ってしまう。遠ざかる小さな背を見送りながら、真実を打ち明けることができない罪悪感に胸が痛んだ。
彼女が探しに行ったあの本はもう絶対に見つからないだろう。
なぜなら文次郎が見つけられぬようにと、今まさにどこかへ隠している最中だからだ。
「くっそ、文次郎め!」
僕は痛む脛をさすり、がっくりと肩を落としていた。文次郎との追いかけっこはこれで通算5回目の敗北だった。
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