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それは物集が「この辺りに幽霊がいる」と言った直後のことだ。
地下二十三階の書庫、狭い棚の間を物集と前後に並んで歩いていたとき、白いものが勢いよく飛び出してきた。
「うわっ!?」
「きゃっ!? あ、物集くん……」
驚き飛びのいた僕の前にいたのは幽霊ではなく、白シャツを着た女性だった。
よく見てみれば彼女の顔には見覚えがある。昨日スカッシュで書庫について教えてくれた兎さんだ。彼女は手に数冊の本を抱えたままで目を丸くしている。
「ふたりともこんなところで何してるの? それに君……小雀くんだっけ。スカッシュに配属されたんじゃなかった?」
物集が微動だにせず答えていた。
「……いや、今日はヘルで研修をするらしい」
「それで物集くんが連れ回ってるの? ふぅん……まぁ、十朱や甲把さんよりはマシかもね」
「……兎。それは?」
物集が「それ」と指さしたのは兎さんが抱えている数冊の本だ。
本について触れたとたん、それまで和やかだった彼女の気配がぴりと強張った。
無表情に舌打ちする兎さんを見て、思わずぎょっとしてしまう。こわい。
「あっちの廊下に落ちてたんだよ。この階の本じゃないのに。最近こういうこと多いよね。誰が放置してるんだろ」
「……さぁ。少なくともヘルに入るのは俺と兎、十朱に甲把くらいのものだろう」
「だからだよ。私たちの誰かがこんなことしてるなんて考えられない。やっぱり誰か、他のフロアの人が勝手に入ってきてるんじゃないかな」
物集はゆるりと首を振る。
「……それはない。誰か入ってくればエレベーターが動くから、必ずひとりは気づくはずだ。少なくとも常に二十階にいる俺は気づく」
「まぁ、そうなんだけどさ」
兎さんは不服そうだった。
黙っていたほうがよかったかもしれないが、どうしても好奇心に負けてしまった僕は恐る恐る疑問を口にした。
「あの、その本が廊下に落ちてると、何か問題があるんですか?」
ふたりが勢いよく僕を見る。振り返った拍子に風が巻き起こるような、信じられないことが目の前で起きたみたいな反応だった。
物集は長い前髪の隙間からでも分かるほどに目を丸くして、兎さんは無表情のままだったが、またひとつ舌打ちを落とした。完全に今のは僕に対して苛立った舌打ちだった。
「あのね小雀くん。書庫の本が定められたフロアと棚に無いってことが、どういうことか分からない?」
困惑する僕に物集が静かに助け舟を出してくれた。
「……水揚げをするとき、紙に書かれた階と棚番号を見て移動するだろう。本を集めに行った先で、その本があるべき場所に置かれていなければどうする?」
「え? それは――探している本が見つからないってことですよね」
兎さんが横から口を挟んだ。
「『見つかりませんでした』じゃ済まない場合もあるんだよ。誰か見つけるまでずーっと探し続ける場合だってあるんだからね」
「でも、これだけ広い書庫ですよ? 探したって見つからない本とかありますよね?」
すると物集が思い出したようにつぶやいた。
「……そういえば、昔は行方不明本は全部見つけていたな。ブッカームが総がかりで大変だった。けれど最近はなぜだか本が定位置にないことが増えて……それで俺たちヘルは、けっこう放置しているな」
「もう、本当に信じられない! 犯人探しなんてしたくはないけど、私たちじゃないならこの本をこんなところに放置したのは十朱か甲把さんしかいないじゃない。私、ふたりに聞いてみる」
「……落ちつけ、兎。止めた方がいい。ヘルの中がぎすつくだろう。それより、その本がどこに落ちていたのか俺も見てみたい」
「だからあっちだって! 小雀くん、ちょっと物集借りるよ」
「はぁ」
「……すぐ戻る」
ふたりは棚の曲がり角の奥へと消えてしまった。
取り残された僕は一緒についていくべきか一瞬だけ悩み、結局その場に留まった。
ふたりがいなくなったこの隙に、地下二十三階とやらを少し見てみようと思ったのだ。
薄暗いこのフロアも他の階と同じで方向感覚が分かりにくいが、幸い僕はいま地図を手にしている。
(えっと、さっき降りてきた階段がここだから。今はこの位置か)
物集はすぐに戻ると言っていたが少しなら離れても大丈夫だろう。書庫自体がしんとしているので呼ばれたらすぐに気づくこともできる。そう思い手元の地図を見ているうちにある一点に目がいった。
(『貴重書庫』? ふーん)
地図によると、その聞きなれない区画は角を曲がりすぐ右手にあるらしい。
なんとなくそちらへ歩きだした。灰色のリノリウムの床を地図ごしに見て進み、貴重書庫の近くまで来て、僕はそこで足を止める。
床に紫色の本が落ちていた。
「これって――」
ぽつんと廊下の真ん中に放置された本は、明らかに誰かが落として行ったようだった。
本棚から自然に落ちたと言えるような場所でもないし、通路の中央に無造作に転がっている。紫の布張りの本を拾いあげてみると、中身は上質な半紙になっていた。本文はくずした和文字で明らかに現代の本ではない、年季のある高級そうな一冊だ。
(どうしよう。これも落ちてましたって言った方がいいよな)
本をめくりつつぼんやり視線を流したところでぎょっとする。数メートル先の床にもう一冊、本が落ちている。さらにその先にも一冊、その向こうに一冊と、廊下に点々と続く本は童話のヘンゼルとグレーテルのパン屑みたいにどこまでも続いている。
「げ。うわぁ」
不気味だった。
僕は紫の本を持ったまま、足元に落ちている本はそのままにして、それがどこまで続いているのか辿っていった。廊下のつきあたりを右に回り、さらに薄暗い区画へと本の道しるべは続いている。
切れかかった電球がちらちらと明滅する棚の間の通路へと本の道は伸びていた。
僕はそこまで静かに歩いてきて、床に落ちた本が途切れているのを確認し、そうして視線をその先へ向けて絶句した。
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