Afterwordは君の手で

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 人だ。  人がいる。  途切れた本の先、こちらへ背を向け座りこむ青い縞模様の着物姿がみえる。  床にあぐらをかき座る彼は、どうやら本を読んでいるらしい。  切れかかった電球がちかちか瞬く中で捉えたシルエットに、僕は自然とゆっくり後退していた。こちらに気づかず本を読みふける彼の頭頂部を僕は凝視していた。 (あれ、ちょんまげ!?)  目の前に座る男性の頭は明らかに髷を結っている。  人生で「ちょんまげ姿の人」を見るなんてテレビの時代劇くらいだ。  あたりが薄暗く遠巻きなので本当にあれが本物の髷であるかは分からない、ひょっとするとカツラかもしれない。  そこまで考え、我にかえった。そうだとしたところで異様なことには変わりはない。  ここは地下二十三階の地下書庫だ。コスプレイヤーが集まるイベントではなく、国立図書館の、いやしくも日本一大きいとされる書庫の最下層部である。立ち入れる者は専門のブッカームだけであり、この図書館の関係者であってもむやみやたらと足を踏み入れないと昨日聞いたばかりだ――ということは、目の前の彼はひょっとしてブッカームなのだろうか? (いや違うだろ。どう見たって働く服装じゃない)  ちょんまげのことはさておき、書庫で働く以上着物姿はないだろう。  僕は足音を立てないよう慎重に後ずさっていく。なんかやばそうだ。こんな場所でひとり本を読んでいるその雰囲気が尋常ではない。  物集か兎に聞けば彼が何者なのかは、はっきりするだろう。仮に不審者が紛れこんでいたとしてもひとりで相手どるのは危険だ。  そう考え少しずつ下げていた僕の片足が、緊張のあまり大きく滑った。足元に落ちていた本を盛大に踏みつけてしまったのだ。そのままバランスを崩し無様に尻もちをついてしまう。リノリウムの床に鈍い音が響きわたった。 「っ、痛ぁ。あっ」  ばっちりとちょんまげの相手と視線が合う。  相手の切れ長の目が丸くなり、しだいに鋭く細められていく。  なぜか険悪になった相手の顔色を見て慌てて口を開いた。 「あのっ、僕小雀です! 昨日からここで働くことになって、――あなたは?」  相手は答えない、読んでいた本を静かに閉じて睨みつけてくる。  無言がいたたまれなくて、落ちていた本を拾い上げた。 「この本、あなたが落としたんですよね? こ、こんな風に廊下に放置しておくのは、良くないそうなんです。大変なことになるって兎さんが怒っていて、えっとだから。良くないみたいなんですよ」  もう混乱して自分が何を言っているのかわからない。何者かも知れない相手にむかって何を言っているのだろう。ブッカームなのか図書館の人間なのか、はたまた外から紛れこんできた変質者か。まずはそれを確かめなければならないが、僕はまだ尻もちをついたままの体勢で動けず動揺していた。床へしたたか打ちつけた臀部が痛い。  すると相手はゆっくりと口を開く。 「――なぜ」 「え?」 「なぜよくないのだ?」  一瞬何を言われたのか分からなくて、けれど彼が床に落ちている本をじっと見ているのに気がついた。 「あ、本を廊下に放置しておくのがどうして良くないか? たぶん、決められた所定の位置に本がないと色々と困るんですよ。それにほら、下に落ちてたら誰かが踏んじゃうかもしれませんし、危ないですよね」  現にいま僕は本を踏んでしまい転んだ。  彼は表情を緩め立ち上がる。履いている高下駄のせいだろう、近距離で立たれると図体が非常に大きく見える。 「あ、どうも」 「うむ」  尻もちをついたままの僕を、手をつかみ引き起こしてくれた。意外とやさしい。  青白く骨ばった手は大きく、ひんやりとしている。  ちょんまげの御仁は鋭かった目つきをすこしだけやわらげ、微笑した。 「たしかに、いやお主の言う通りだ。あまり人が通らぬゆえ自由にしておったが、誰ぞに本が踏まれてしまうやもしれぬな」 「はあ」  なんだか随分と古めかしい喋り方だ。  こっそり容貌を窺ってみると、歳は僕と同じくらいかもしれない。けれど背はもっと高くてすらとしている。  涼しげな美丈夫で、切れ長の目を笑ませると愛嬌もみえてくる。  図書館の外で出会っていたら舞台俳優か何かだと思ったかもしれない。ちょんまげに着物姿だし、本当に時代劇の俳優なのかも。  僕の不思議そうな視線を受けて彼は涼やかに笑った。 「先ほど名を尋ねたな。儂は文次郎という」 「もんじろう?」 「うむ。小雀とやら、儂が見えておるのだな?」 「はい? まあ」 「会えてうれしく思うぞ」  笑む相手になぜだか嫌な空気を感じた。  すこしだけ距離を取り、一歩さがって文次郎をもう一度良く見てみる。 (見えるってなんだよ、目の前にいるのに。まさか)  脳裏をかすめたのは書庫に出るという幽霊の噂だ。けれどそんなはずない、だって目の前の彼にはしっかりと両足が生えている。お化けのように体が透けていることも白装束を着ているわけでもない。それに僕はさっき彼の手を握ったばかりだ。  自分の手のひらを見ていると、文次郎が淡々と聞いてくる。 「ところで、お主はここで働いておると申したな。お主もいずれはここにある本をどこかへ持っていくのか?」 「へ……?」 「ここの者たちは棚にある本をいずこかへ運んでいくだろう。お主もそうやって本に災いをもたらすのかと聞いておる」 (本に災い? いったい何の話なんだよ)  文次郎はねめつけるように僕を見ていた。言われている意味が全くわからなかったが、なぜだか怖くて僕は首をふる。 「いえ、僕はしません。来たばかりですし、何もしませんから」 「本当か?」 「ええ。ただ見てるだけです。今だって本が落ちてたから辿ってきただけで」 「なら良いが。ふむ。お主は変わっておるな。儂のことが見えるようだし」 「その、見えるって普通に見えるでしょ? だって」  目の前にいるじゃないか。いったい何を、と口にしかけたとき、遠くから僕の名を呼ぶ声とふたり分の足音が近づいてきた。 (兎さんたちだ。よかった、助かった!) 「すいません、ここから動かないでくださいね! すぐに戻ってきますんで」  返事も聞かずに声のするほうへと駆けていくと、兎さんと物集の心配そうな顔があった。 「あ、小雀くんいた! 勝手にいなくなって迷っても知らないよ?」  苛立たしそうに兎さん言われて僕はほっとしてしまう。 「それどころじゃないんですよ、こっちに来てください! 物集さんも急いで、大変なんですって!」 「何なの?」  戸惑う兎さんと一見して平静に見える物集を手招き、ふたりを先ほどの場所へと連れていく。電球が切れかけ周囲が明滅している棚までくると、物集は電気が切れかかっているのをじっと見ている。 「……電球、取り替えてもらわないと。連絡しておくか」 「いや物集さん、それじゃなくてこっち――あ、あの人なんですけど!」  あの人、と指さした先にぼんやりと突っ立つ文次郎がいる。  物集は小首を傾げ、僕が示した先の床を見て頷いた。 「……ああ。ここにも本が落ちていたのか」 「え? あいや、まぁそう、そうなんですけど! そうじゃなくて」  すると兎さんが勢いよく前へ飛び出し、しゃがみこみ本を拾い上げた。  彼女の数センチ前に文次郎がいるのだが、まるで文次郎には見向きもせずに……いや、まるで見えていないかのように本に釘付けになっている。 「ちょっとこれ、私が今日ずっと探してた本だよ。貴重書庫の!」  物集も床に落ちていた他の本を拾い眺めている。 「……本当だ。この辺りにたくさん落ちているな。小雀、これはどこから」 「え? いやだから、これはここに落ちてたんです! それを僕が見つけてそれから、でもそういうことじゃなくて!」 「うわ、物集! こっちの本もずっと行方不明になってたやつだ! こんなところに大量に落ちてるなんて信じられない。この前通ったときには無かったのに」 「……小雀、お手柄だな。これだけ多くの行方不明本を発掘するなんて」  文次郎の存在を全く無視したふたりの態度に閉口してしまう。指さした手を力なく下ろすと、着物姿の文次郎はニヤリと笑っていた。 『気づいておらなんだか。だから言ったろう? 儂が見えるのかと』 「そんな……だって普通にさっき、あなたの手に触って」 『ふむ。儂が見え、触れられる者に出会ったのは初めてだな。生前に戻ったような気分で愉快だったぞ』 「生前? まさか。いやいやいやそんな」 「小雀くん、なにぶつぶつ言ってるの?」  兎さんが怪訝そうに寄ってきたが、僕は文次郎を見て凍りついていた。  兎さんの背後で文次郎が腕組みし涼やかに笑っている。よく見れば彼の腰には黒く長い刀が下げられていた。漆塗りの鞘に収まる刀で、ちょんまげ姿の文次郎は時代劇に出てくる本物の侍のようだった。 『儂はすでに死んでおる。主らは幽霊と呼んでおったな』 「ゆ、ゆうれい」  本物だ。後ろへよろめくと、物集が長い前髪の隙間から僕の視線の先を追う。 「……小雀、見えるのか? そこにいるのか?」  兎さんが大きく震えた。 「えぇ!? やめてよもう。物集がそんなことばっかり言うからみんなびっくりして怪我しちゃうんだからね。君も物集の言うことは信じちゃだめ」 「いえ、本当に僕」  ふたりには見えないのか。僕にだけ文次郎が見えるのか。なぜ。  今まで考えていた幽霊とはもっと暗がりから突然に現れるタイプのものだった。少し開いた扉の隙間や暗い窓の外からこっそり静かに覗いている、そんなイメージだ。けれど目の前の彼は姿がくっきりはっきり見える上に声だってクリア、彼自身の両足でちゃんと立っている。笑った顔には愛嬌すらあって陰湿ではなく、むしろ爽やかですらあった。 (これが幽霊? いやどう見たって人だ) 『ふむ、今日のところは引き上げることにしよう』  僕を見て笑った文次郎がそう言った次の瞬間には、彼の姿は跡形もなく消えてしまった。消えてしまった。ひとつ瞬きをする間に文次郎は音もなく宙へ溶けてしまったのだ。
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