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ヘルのプリンターが置いてある、地下二十階へ三人で帰ってくると、そこに困り顔の甲把がいた。甲把の前には燃えるような赤髪の女性がいて、何ごとか詰問口調で食ってかかっている。
「そんなこと言われたってねぇ、僕にはどうしようも……あ、お帰りぃ」
甲把が助かったという風に微笑み手を振ってくる。すると赤髪の女性はひどく不機嫌そうに物集と兎さんを指さして言った。
「ちょっとアンタたちも言ってやってよ! 甲把には危機感が足りないって!」
「……危機感」
物集が首を傾げると、気の強そうな彼女は兎さんへ矛先を向けた。
「兎、アンタなら分かるわよね!? この書庫にあたしたち以外にもうひとり、誰か住んでるって!」
詰め寄られても兎さんは顔色ひとつ変えず冷静だった。
「十朱(とあけ)、落ちついて。いったい何の話をしてるの? 誰か住んでるって」
「だって、そうとしか考えられないじゃない! ここ最近の行方不明本の多さ、書庫でカップラーメンを食った奴、そいつがここであたしたちに隠れて好き勝手にしてるのよ! だって時々あたしこのヘルで、なにか……なにかいるって感じるもの」
それを聞いてぎょっとした。ひょっとして彼女が言っているのは「文次郎」というあの幽霊のことだろうか。
甲把は困惑しているようだった。
「たしかに最近、行方不明本が増えて困ってはいるけどねぇ。ヘルからの水揚げ失敗が多いって、この間の会議でも問題になってたし」
「なんですって、問題!? アンタどうしてそれを早く言わないのよー!?」
十朱と呼ばれた彼女は甲把の襟元を掴み激しくゆする。それまで静かに見ていた物集がようやく前へ出た。
「……十朱、手を放してやれ。甲把さんが窒息して死ぬぞ」
「うっさい! アンタはその鬱陶しい前髪をいい加減に切んなさいよ!」
「……俺に当たるな。それに、誰かこの書庫にもし本当にいるとして、どうする?」
「だから! それを甲把に何とかしろって言ってんの!」
掴まれていた襟首を解放された甲把はせきこみ、やんわり首を振る。
「物集くんまでそんなこと言ってるの? 誰もいやしないよ。だってここは地下十六階から最下層までのヘルだよ? 下水よりさらに下もした、送風が途切れたら窒息死しちゃう閉鎖空間なんだよぉ~?」
僕は「えっ」とびくついたが、周知の事実だったようでみな顔色ひとつ変えない。十朱が眉をつりあげた。
「送風は二十四時間入ってるでしょ! あたしたちが息してるってことはそいつも息できる。そういうことじゃなくて、あたしが言いたいのは危ないんじゃないかってことよ! 不審者が気づかないうちに書庫に紛れこんでたら、なにされるかたまったもんじゃないわ」
どうやら十朱は書庫に本当に誰か部外者が紛れていると考えているらしい。
このだだっ広く極度に人の少ない書庫において、不審者がいるかもしれないというのはちょっとした恐怖だ。
極端な話、ひとりでいる時に誰かに襲われでもしたら、周囲に人がいないので助けを求めることすらできない。怪我をし倒れていても、結局は自分が動けなければ誰かが探しに来るのを待つしかなく、そうして広い書庫を手分けして探すのにはかなり時間がかかる。地下深いこの場では携帯の電波も入らない。
げに恐ろしいのは生身の人間であって幽霊などではない。それは分かっているのだが、僕はそこでつい突っこんでしまった。
「あの、それって幽霊の仕業かもしれませんよね?」
この書庫には文次郎というちょんまげの幽霊がいた。僕は彼に触ることもできたし、彼も本を読んだり物を掴めるようだった。だとすれば、本が所定の位置から動いたり失くなったりしているのは、文次郎のせいではないか。僕は大真面目に発言したが、全員から注がれた視線は冷たかった。
兎さんが無表情に首を振り、甲把が目を丸くする横で十朱が口をへの字にする。
「ハァ? あんた何寝ぼけたこと言ってんの。ていうかアンタ誰よ」
「あ……僕、小雀です。昨日から書庫で働くことになって」
「昨日? なんで昨日や今日入ったばっかの新人が、このヘルにまで降りてきてんのよ! 甲把、これどういうこと!?」
「い、いや~、あははは」
甲把はすごまれ目を泳がせている。
僕の幽霊のしわざ説は流れてしまったかにみえたが、物集が話をさっくり戻した。
「……俺は、幽霊はいると思っている。そいつが本を動かしているのかも」
「それはない」兎さんが即座にそれを否定する。「そんなこと考えるくらいなら、私は十朱の言い分に賛成かな。現にさっき見つけてきたこの本だって、明らかに誰かの手で廊下に置かれてたんだから」
兎さんが紫の本を掲げると、甲把が目を輝かせた。
「あ、それぇ! この間行方不明になってたやつだね、さすがぁ! もう発掘してきたの?」
「私じゃありません。小雀くんが、この本が廊下に落ちてるのを見つけたんです。でも今日はこれだけじゃなくて、他にも数冊が同じように落ちていました。不思議なのは、明らかに誰かがわざと置いていったような――棚から自然に落ちたってわけじゃなさそうなんです」
そう言った兎さんは鋭く甲把と十朱を見やった。視線の意味をすばやく察し、十朱が刺々しい口調になる。
「あんたね、まさかとは思うけどあたしたちを疑ってんの? そんなことして何のメリットがあるっていうの。結局困るのは自分たちじゃない」
「……そうなのよね。だから私もひょっとしたら、十朱が言ったみたいに他に誰か、不審者がこのヘルに潜んでいるかもって、そんな気もするの」
兎さんが言葉を切ると沈黙が流れた。全員が互いを窺うように見て、それからヘルの主任である甲把へと視線が集中する。注目を浴びた甲把はなぜか銃で脅されたようにもろ手を挙げた。
「え、つまりこういうこと? みんな誰か不審者がヘルにいるかもって考えてるの?」
十朱と兎さん、物集は各々しっかりと頷いた。困惑顔の甲把は僕を見る。
「小雀くんは? 君は来たばっかりだけど、だからこそ感じたこともあるんじゃない。どう、ここに僕ら以外にも人がいそう?」
「人、というか」
僕の頭にずっとあるのは文次郎のことだ。彼の姿は兎さんや物集には見えず、僕だけが会話し触れることができた。つまり文次郎は人ではなく幽霊であり、この書庫の本が移動しているのも彼の仕業ではないのか。けれど兎さんや十朱は幽霊を信じていないようだし、物集や甲把がどう考えているのかはよく分からない。仕方なく無難に答えておくことにした。
「あの、ここに降りてきてたしかに、何かがいるような気配は感じました」
僕の答えに甲把は肩を落としている。
「そっかぁ~……小雀くんがそう言うなら仕方ないね。英ちゃんに頼んで、上の警備員さんに中をぐるっと見てもらおうか」
十朱が鼻を鳴らした。
「最初からそうしなさいよ。あたしたちに何かあったら、アンタの責任問題よ?」
「そんなこと言われてもねぇ。たしかに最近不可解なことは起きてるけど、僕にはみんなが言うように誰かがここに潜んでるなんて全然思えないんだよねぇ。それに英ちゃんが嫌がるだろうし」
「……どうして嫌がるんだ?」
物集の問いに答えたのは兎さんだった。
「あの人忙しいから。書庫全体の統括をほぼひとりでしてるの。加えて上のフロアも任されているし」
甲把は静かに壁掛け時計を見ている。時刻は早くも十一時になっている。書庫での昼休憩はこの時間から交代で取るのが決まりだった。
「とりあえずお昼にしようか。順番に取っていって。いつも通りに一時には全員が顔を揃えるようにしておいて~」
ヘルでは本当にほとんど仕事がないらしい。水揚げ依頼もひとつもこないので昼休憩も適度に取れるようだ。昨日、僕がいたスカッシュは猛烈な忙しさだったので、休憩を差し挟む采配に須磨がかなり苦労していたが、甲把は何とも緩み切っている。
「小雀くんも先に休憩とってきていいよ」
「そういえば、一時と四時には忙しくなるんでしたっけ?」
「うん、よく覚えてたねぇ。そうそう、僕らだってなにも遊んでばかりいるわけじゃないんだよ~? 君にはそう見えちゃったかもしれないけど」
「い、いえ。そんなこと」
ぎくりとした僕の横から兎さんが言う。
「まぁ、その時間帯以外は遊んでいますよね。小雀くんもお時給を頂く身なら、ここの人たちみたいに手を抜いたら駄目だよ。私以外のみんなは真面目じゃないけど、仕事は仕事なんだから君はきちんと働いて」
甲把はへらりとした笑みだ。
「そんなこと言うの兎くんだけだよ。僕は助かるけど、兎くんだってもっと手抜きしていいんだよ~?」
「甲把さん、いい加減にきちっとしてくれないと困ります。あなたがそんな態度だからみんなだらけてしまうんです。ヘルでだってやることは山ほどあるんですよ?」
「だってぇ。忙しい時間だけ乗り切れば僕ら、咎められることないもんねぇ」
兎さんが無表情に、けれどはっきりと舌打ちしたので僕は慌てて甲把に聞いた。
「その時間帯、そんなに忙しくなるんですか?」
「それはもう、小雀くんもびっくりするよ? 他のどのフロアより忙しくなるんだから~」
「え……そんなに?」
甲把は愉快そうだった。
「せっかくだから君にも少し手伝ってもらおうかなぁ。このフロアがヘルって呼ばれる所以をぜひ体験してみてよ」
「はぁ」
嫌だ、とは言えなかった。
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