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休憩から戻ってくると、ヘルに英さんがきていた。
彼は苛ついた様子だが、対する甲把は相かわらずへらへらとしていた。
「だからぁ、書庫に誰か不審者がひそんでるかもって、みんなが」
「なにを馬鹿な。そんな妄想のためにこの忙しい中、僕を呼びつけたってのか!? 警備の人員を書庫に回せるわけないだろう!」
「そんなこと言って知らないよぉ? 本当に誰かがこのヘルにいて、これまでに起きた幽霊騒動やブッカームの怪我もそいつのせいだったとしたら、英ちゃん。君の責任になるんだからねぇ」
「なんで僕のせいになるんだよ。管理不行届きだったのはお前だろ」
「部下の不始末は上司の責任。あ、ということはそっかぁ。君の上司である雨宮姫の責任にもなるわけだねぇ」
「っ、……言いがかりもいい加減にしろよ、あの人には関係ない。大体、誰かいると思うのならお前らが自分で書庫内を見回ればいいじゃないか」
「えぇ、だって危ないよ。それにほら、もうすぐ僕らは一時で忙しいし」
「それ以外の時間に行けばいいだろうが!」
「あ、あの」
休憩から戻ってきたことを視線で告げると、甲把がひらめいたと指を鳴らした。
「そうだ! 小雀くんと英ちゃんで見てきてよ。それなら警備員さんも必要ないし」
「なんで僕がこいつと」
「だってひとりじゃ、いざという時に危ないでしょ? ふたりだったらひとりは走って助けを呼びにこれるよね」
「勘弁してくれ。僕は忙しいんだぞ、それを」
「英ちゃん~。こっちだって新人の小雀くんを快く受け入れてるんだからさぁ、ちょっとくらい融通してよ、ね? すこしヘルの中を見てきてくれるだけでいいから。それでみんな納得すると思うしさ」
英さんは忌々しそうに睨んでくる。
「くそ、全部お前のせいだからなっ!」
「うっ。すみません」
助けを求めるように甲把を見ると、ふやけた笑みで手を振られてしまった。
「小雀くん、ヘルの地図は渡したよね? 悪いんだけどさ、それ見て英ちゃんと一緒にぐるーっと一周してきてくれる? もし本当に不審な人を見かけても捕まえたりしなくていいから。君だけは逃げてくるんだよ~」
「はあ」
「ったく。ほら、さっさと行くぞ! その地図貸せよ!」
「えっ、あちょっと。待ってください!」
地図を奪い早足で歩いていく英さんを慌てて追いかければ、後ろから甲把のふんわりした声が聞こえてきた。
「いってらっさい~。あ、できたら一時には戻って来てねぇ」
「甲把め。あいつ僕を小間使いか何かだと思ってるのか?」
前を歩く英さんは地図をひっくり返しては回している。
「英さん。その地図、上下逆です」
「わ、分かってるよ! よし、こうなったら上から順に見ていくぞ。まずは階段の場所だが、――こっちだ」
「階段こっちです、英さん! そっち逆」
「っ、うるさい! 小雀、お前が地図を持て!」
「えぇ? そんな勝手な」
(自分から奪ったくせに)
どうやら彼は極度の方向オンチらしい。突き返された地図を仕方なく広げ様子をうかがうと、後ろを歩きながら文句をたれている。
「まったく、何で僕がこんな。書庫に不審者なんているわけないだろうが」
「――いるかもしれませんよ。幽霊、とか」
「ハァ? ゆうれい」
英さんは小馬鹿にした風に笑う。
「そういえば聞いたぞ。お前、雨宮さんから書庫の幽霊退治を頼まれたそうじゃないか」
「あの、幽霊退治じゃなくて、ただ噂を集めてきてほしいと言われたんですけど」
「同じことだろう。幽霊なんて存在しないんだから」
階段を上がり、辿りついたフロアをざっと眺め歩いていく。しんとした薄暗い書庫にはどこまでも本棚がつらなり人の気配は微塵もない。
「いいか、くれぐれもあの人の前で幽霊がいるみたいな妄言を吐くなよ。雨宮さんはなによりそういうのを嫌うからな」
「そういうのって、怪談話をするなってことですか?」
「そうだ、要するに……っと」
英は歩みを止め、真横にあった本棚に目を留めじっくりと眺めだした。
「どうかしました?」
「いや、この棚の本が。そろそろ替え時だなと思ったんだ。損傷が激しいものばかりだろう」
英さんが眺める本棚には赤茶けた背表紙の文庫がずらりと並んでいる。
年代の古い本が固まっているらしく、陽焼けして破れかかっているものが多い。棚に並ぶ一冊を僕が手に取ってみると、破れかかっていた表紙が持った瞬間に取れてしまった。
「あ、……すいません」
「仕方ないな。その本は後で甲把に渡しておけ。しかしこの辺の棚は――結構な数を処分することになるだろうな」
英さんはキャスター付きの梯子を引いてきて、最上段に登り書棚の上を観察している。なにか上の棚に気になるものでもあったのだろう、腰ほどの高さの梯子につま先立ちをして、棚の奥へと手を伸ばしている。こまの付いた梯子が小刻みに揺れていた。
(危ないな、この梯子。キャスターが乗っている時に動きでもしたら)
僕が英さんに注意を促そうとした時だった。
『許さぬ』
ひんやりと涼やかな声がした。
視界の右隅で青い着物の袖がはためき、そこからにゅっと伸びてきた白い腕が梯子を掴んだ。そのまま横へぐいと引く。
「うわっ!?」
梯子が勢いよく動いてバランスを崩した英さんが背中から落ちてくる。
慌ててその背を支えようとして、けれど間に合わずに彼を受け止める形で一緒に倒れこんでしまった。したたか床へ打ち付けた背中と腰が痛い。今日、書庫で転ぶのはこれで二回目だ。
「っ、うぅ……くそ、何なんだよ」
僕の上に落ちてきた英さんは身を起こしたが、蹲ったまま足首を抑えている。どうやら落ちた衝撃で片足を痛めたようだ。
「だ、大丈夫でしたか? 痛ててっ」
『うぬぅ、運の良い奴め。落ちて大怪我をすればよかったものを』
僕は聞こえてきた声に顔を上げた。
先ほど出会ったばかりの、ちょんまげ頭に青い着流し姿の幽霊・文次郎が腕組みをして立っていた。英さんを見る顔つきは険しい。
「お、お前がやったのか? なんで」
『小雀よ、こやつはこの棚の本を害すつもりなのだ。許すまじ』
「本を害すって何だよ?」
「……おい、お前大丈夫か? 頭でも打ったのか?」
英さんが怪訝そうに見てきたので僕は仕方なく口をつぐんだ。
文次郎は梯子の一番上にふわりと飛び乗ると、棚の中でもひときわ大きくて固そうな本へと手を伸ばした。
『この棚の本を処分すると、確かにそう聞いたぞ。本を害する者は許すまじ』
「なっ――」
屈む英さんのちょうど真上、梯子の最上段に文次郎は立っている。真下の頭を狙うように、手にした分厚く重みある本を今にも落とさんと掲げていた。
(あの高さからあの本が落ちてきたら軽い怪我じゃ済まないぞ!?)
英さんは気づいていないようで、僕の様子がおかしいのに眉をひそめている。
『こ奴さえいなくなれば、この棚の本が害されることはなくなるのだ』
「止めろって! こんなことしてっ――ただ本を捨てるだけじゃないか! それを」
『本を捨てるだけ? ……そうか、やはりお主も他の者と同じか』
「なに言ってるんだよ!? この棚の本がぼろぼろだから捨てるって、そう言っただけだろ?」
僕は立ち上がっていた。文次郎が英さんの頭に落とそうとしている大きな角ばった本をなんとか阻止しなければならない。文次郎は鼻息で笑むと、指を少しずつ離していく。
(やばい、落ちる!?)
「小雀、どうしたんだよ本当に。僕は本を捨てるなんて、ひとことも言ってないぞ?」
「え?」
ぴたりと僕と文次郎の動きが止まった。
文次郎はしかめ面で首を傾げている。
『こ奴め、儂が見えておるのか?』
「いや、そんなはずは……見えてます?」
「お前さっきから何をひとりでぶつくさ言ってるのさ。悪ふざけもいい加減にしろよ」
(見えてない、よな。あれ? どういうことだ?)
僕が文次郎と顔を見合わせていると、英さんはよろりと立ち上がった。
「ここの本は書庫から減らすだけだ。まだ読める本を捨てるわけないだろ。痛んだ本はバザーに出して、一般の人に譲るんだよ」
「あ……処分するってじゃぁ、そういうことだったんですね。本を捨てるわけじゃないんですよね?」
「はぁ、だからそう言ってる。お前、転んだ僕より本の心配か? 薄情なやつ」
念押しするように聞いてから僕は文次郎を睨みつけた。文次郎は口をへの字にし、持っていた大きな本を静かに棚の最上段へと戻している。
『ふん。今回は見逃してやるが次はないぞ』
「なんでこんなこと。危ないだろう!?」
『お前たちの方が余程に危ないわ。本を軽々しく扱いおって』
文次郎はそう言い捨て消えてしまった。一瞬で跡形なく消えてしまい元から誰もいなかったような静けさが辺りに戻ってくる。
「小雀、お前。本当に大丈夫なのか?」
英さんは微妙な顔つきになっていた。
「何でもないです、すみません」
「お前いったい誰と――いや」
英さんは気味悪そうに言葉を呑みこみ、それまで文次郎がいた辺りを見つめている。彼にはやはり文次郎の姿も声も感知できないようだ。英さんはひとつ首を振り「行くぞ」と促してから、思い出したように振り返った。
「お前……まさかとは思うが梯子を、引いたりしなかった、よな?」
「し、してません! 僕はそんなこと」
「いや悪い、なんでもないんだ」
英さんは片足を引きずるようにして、それでも早足でまた書庫の奥へと歩いていく。僕は文次郎が周囲にいないことをもう一度確認してから、その後を追っていった。
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