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結果的にいえば、ヘルの中に不審人物を見つけることはできなかった。
戻り全員にそれを伝えると、みな一様に安堵したようながっかりした風な雰囲気だ。
「英ちゃん、その足どうしたの?」
甲把が目ざとくそう指摘したのは、英さんが隠すように少しだけ引きずってきた片足だ。
「転んだんだ。なんでもない」
「えぇ? 僕、『なんでもない』って言う人のことは信用しないことにしてるんだけど。医務室行った方がよくない?」
「うるさい、こっちはそれどころじゃないんだよ! ここで時間を無駄にしたせいで上の仕事が山積みだ!」
「無理しちゃって、知らないよぉ。ね、小雀くん」
甲把がいわくありげに見てくるので、慌てて頷く。
「そうですね、やっぱりちゃんと診てもらった方が」
「放っとけ。行くにしても後だ」
上に戻るという疲れた顔の英さんを見送ってからは、またまったりとした地下書庫の空気になる。ヘルの面々は思い思いに散っていき、読書にふけったりこまめに働いていたりする。
そうして決着したかにみえた幽霊騒動は、しかしそれで終わらない。
一日の業務が終わってから、僕は書庫の統括責任者である雨宮姫に会いにいかねばならなかった。幽霊に関することでなにか分かれば逐一報告するようにと言われている。
雨宮姫のいる地上十階へ着くと、木の重厚な扉が待ち構えている。
軽くノックすれば待ち構えていたように応えがあった。
雨宮姫は応接セットの椅子に座り、何やら書類を眺めていた。入ってきたのが僕だと気づくと、苦笑して机の上を片付け始める。
「君か。てっきり英かと。すまんな、そちらへ座ってくれ」
「はい」
彼女は足を組み「それで?」と促してくる。
「今日はヘルに行ったんだな。どうだった?」
「大変でした、急にものすごく忙しくなって――驚きましたよ」
「だろうな。普段は暇な場所だが、あそこには専門書が多いからな。特定の時間になると忙しくなると聞いている」
雨宮姫が言ったのは、おおむね僕が今日聞いてきた説明と同じだ。
古書や専門書を取りそろえるヘルの本を利用したいと言う人は、普段であればとても少ない。けれど一部常連の利用者たちが大量に本を要求してくることがある。
『百冊も二百冊も書庫から出したって、一日で読めるわけがないのにねぇ。借りるにも限度があるし、そんなに本を積みあげてどうするつもりなのかなぁ』
そう言ったのは諦めの笑みを浮かべた甲把だ。
一時と四時に起こる空気が沸騰するような忙しさは、その一部マニアックな趣味を持つ常連さんの仕業らしい。
基本的にブッカームたちは利用者と顔を合わせないため、それが誰なのかは分からないしあえて知らないようにしているというが、働く身としては迷惑な話だ。
(まぁ、あれだけ暇な場所ならかえって仕事があってありがたい、のか?)
「小雀くん。ヘルの感想もいいが、私が頼んだ件に関してはどうだろう。なにか噂の手がかりは掴めたか?」
猫のように笑むその目を見て、僕は背筋を伸ばした。
「はい。噂の手がかりというか、噂そのものの本体を見つけました」
「というと?」
怪訝そうな雨宮姫に僕はきっぱり告げ渡した。誤魔化しなく。
「幽霊を見つけました。ヘルで、ちょんまげ姿の幽霊に会いました」
雨宮姫は一瞬だけ無表情になり、すぐに乾いた笑いを浮かべた。
「冗談はよしてくれ。初めに言ったはずだろ。私は幽霊なんて信じないと」
「でも見たんです! 実際に書庫に居ました。そいつが書庫の本に悪さをしてるんです。だから――」
「もういい」
突き放すように言った彼女はゆるりと首を振る。ふざけていると勘違いされ、怒らせてしまっただろうか。黙っていると彼女は重々しいため息をついた。
「今から聞くことに明確に答えてほしい。今日君は幽霊の噂をする人物と話したか?」
「……はい」
「それは誰だ?」
「物集さんと――いえ、ヘルの全員です」
「ふむ。ヘルのブッカーム全員が、幽霊の噂をしていたというのかね?」
「幽霊の噂というか、あの! 僕きちんと順を追って説明しますから、聞いてくれませんか?」
雨宮姫は不機嫌な顔で黙っていたが、話を待っていてくれた。
僕は今日あった出来事をできるだけ正確につまびらかに話した。
ヘルを物集に案内してもらい、彼から幽霊の噂を聞いたこと。書庫の本が定位置になく、投げ出されるようにして床に放置されていたことや、その件で書庫内に誰か不審者が紛れているのではと兎さんや十朱が疑っていたこと。そこまで話したとき、雨宮姫が静かに片手をあげる。
「その、本が床に落ちていたというのはどういう状況だ?」
「え?」
「棚から自然に落ちた。もしくは誰かが一冊だけ落としてしまったのではないのか?」
「いえ、僕も見ましたけどそんな感じじゃありませんでした。わざとばらまかれたような、自然に落ちた風でもなかったですし」
ふむ、と彼女は眉をしかめている。
「書庫の管理者としては由々しき事態だな。いや、悪い。続けてくれ」
「は、はい。それで僕と英さんでヘルを見回ることになったんです」
「英が?」
雨宮姫は意外そうな顔をした。
僕は英さんとヘルを見回ったことを話した。結局誰の姿も見つけられなかったこと。
そのときに英さんが梯子から落ち怪我をしたことは、けれど黙っておいた。
肝心の幽霊・文次郎に出会ったときの詳細も。雨宮姫に伝えたのはあくまで誰にでもわかる事実だけで、幽霊の件は意図して除くようにしておいた。すると当然のことながら、雨宮姫は怪訝そうに尋ねてくる。
「話を聞くかぎり、君の言う幽霊なんてものはどこにもいなかったように思えるが」
「どう思いましたか? 僕の話を聞いて、……その、僕は幽霊をたしかに見ました。この目で見て幽霊と話もしたんです。でも正直に自分でも戸惑ってます。だって、他の人には全く見えないものが僕だけに見えるって、なんだか考え直してみるとちょっと」
僕は文次郎を確かに見た。
会話をし触れて、その存在を知覚した。けれど本当に彼は幽霊だったのか。
雨宮に「幽霊などいない」と真っ向から否定されてみれば不安にもなってくる。
僕にしか見えない存在、それはひょっとして幻覚や空想の類ではないか。
書庫に入る前から雨宮姫に幽霊の存在をほのめかされていたのだから、なにかいると思いこんでしまっていたのかもしれない。地下深く慣れない環境で、幻を見てしまったのではないか。分からなかったのだ。急に自分の知覚を信じられなくなってきた。だから彼女に正直な感想を教えてほしかった。自分が見たものが幽霊か、あるいは何らかの原因でおかしな幻想を見たのかを。
首を傾げ彼女はあっさりと言う。
「見間違いじゃないのか? そもそも、そのときの詳しい状況を聞いていないからわからないな」
「あ、それは――」
「いや、言わなくていい」
なぜかきっぱりと断られ、怒っているのかと思ったがそうではなくて、断固たる拒絶、という雰囲気だった。よほど幽霊話が嫌いらしい。
「雨宮さんは幽霊を信じてないんですよね? だったら、僕が言ったさっきの状況ってどういうことなんでしょうか。もし幽霊がいなかったとしたら、やっぱり誰かがヘルにいるってことなんでしょうか?」
「『もし』ではない。幽霊は絶対に存在しない。が、そうだな。君の話から考えられることはいくつかある」
そう言って腕組みをする彼女は、何事か考えるように机を睨んでいる。
「まず第一に、あの書庫に不審者が紛れこむことはあり得ない」
「それは……?」
雨宮姫は至極当然のように言った。
「書庫に降りるルートは階段とエレベーターだが、そのどちらにも監視カメラがある。階段は全フロアにあるわけではないが、降り口と主要な点に取りつけてあるはずだ。監視カメラは二十四時間、警備室で監視されている」
「厳重なんですね」
雨宮姫は苦笑した。
「普通の図書館とは違うからな、ここには貴重な文献が多い。売れば数千の値がつく物もある。以前に書庫へ忍び入ろうとした部外者を取り押さえたことがあってな。以来、管理は厳重にしているよ」
「そうですか。だとすると」
兎さんや十朱が疑っているような、外から紛れ込んだ不審者がいるという線は無さそうだ。
ついでに僕と英さんが書庫を見て回ったのも無駄足だったことになる。
(あれ? 英さんはこのこと知らなかったのかな)
書庫の統括補助をしている彼なら監視体制が厳重であると知っていてもおかしくない。けれど彼はひと言もそんなこと教えてくれなかった。雨宮姫はこちらの疑問を見透かすように笑う。
「英のことか? 一緒に書庫を見回ったらしいが、それはあいつなりの気遣いだろう。おそらく事実を伝えても、そこで働く者たちが納得しないと考えたんだろうさ。あいつは意外にも面倒見が良いんだ」
「そう、ですか」
たしかにあの場でいくら「書庫は厳重に管理されている」と伝えたところで、みんなの不安は拭いきれなかったかもしれない。現にそこで働く人間が不安を訴えているなら、事実のみを伝えるより、実際にその目で確かめてくる方が説得力があっただろう。
「君の話から私が導いた答えはひとつだ」
彼女はまるで物語に出てくる探偵のような物言いをしていた。
「書庫で起きている怪異現象や本の行方不明、ともすれば書庫内で幽霊に怪我を負わされたというのも――すべてブッカームの誰かの仕業なのだろう」
「えっ、ちょっと待ってください。そう決めつけるのは早急にすぎませんか?」
「そうだろうか」
「だって書庫の人間が本を隠したり床にばらまいたりして、何のメリットがあるっていうんです? 結局、後片づけをしたり本を探すはめになるのは自分たちじゃないですか!」
「たしかに。例えば先に君が述べた『本が床に落ちていた』ことなら、ヘルの者たちの仕業ではないかもしれない。けれどほかのフロアの者ならどうだ?」
「ほかの?」
「スカッシュやヘブンの者たちだって、ヘルに出入りできる。他のフロアの者が応援に来ることだってあるだろう。まぁ、その辺りは簡単な話だよ。ここ最近の監視カメラ映像を見てみればいい。誰がそのフロアへ出入りしたのかすぐに分かる。だから問題は、映像を調べても何の収穫も無かったとき――つまり、ヘル内のブッカームの仕業だった時だが」
「えっと、だから。そんなことしないと思うんですけど」
「小雀くん。人間というものは、得てして様々に不可解な行動を起こすものなのだ。それがどんなに不合理な動きであっても、何らかの理由があるかもしれない」
「そんな……」
たしかに起こった事実だけをつなぎ合わせれば、書庫に出入りできるのはブッカームだけなので、その中の誰かが悪戯をしているということになる。もちろんまだ監視カメラを調べてもいないし、他のフロアの人が何らかの理由で嫌がらせをしにきたという可能性もある。けれど僕にはひとつどうしても気にかかることがあった。
「けれどもし本当に、僕が見たあの幽霊の仕業だったら」
「あり得んよ。まだ言っているのか」
彼女は呆れ顔だ。
「君は……幽霊を信じているのか?」
「いえ僕は。ここに来るまでは、人並みでした。つまりその、特に信じてはいなかったんです。けれど見てしまったので」
現にここで働こうと思ったきっかけだって、絶対に居ないだろう幽霊が出るという話が面白そうだったからだ。まさか本当に幽霊がいるとは思わなかったし、そうだと知っていたら働こうなんて考えない。幽霊なんていないと思ったからこそ来たわけで、僕にとって文次郎はあってはならないびっくり箱の中身だった。
僕はいるはずのないちょんまげ姿の幽霊を見てしまった。
けれど話を信じてくれる人は当然のようにおらず、真実を伝えても胡散臭そうに見られるだけ。それは目の前の雨宮姫も例外ではない。冷たい目線を向けられてしまう。
「小雀くん。私は嘘をつく人間が嫌いだ。なにも君がそうだと言っているわけではないが、これ以上その馬鹿げた話を続けるなら、そう考えざるをえないぞ」
「そんなこと。あのですね、よく考えてみてくださいよ。僕がいま、たとえば嘘をついてどんなメリットがあるんです?」
「さてな。私をからかって面白がっているのかも」
「いい加減にしてください、そんなことしません。僕は嘘なんてついてませんし、自分でも混乱してるんです。突飛な話だっていうのは分かりますけど、それなら僕はどうすれば……あの幽霊を、このまま放っておいていいんですか?」
文次郎をこのまま放置して良いのだろうか。英さんに危害を加えようとした彼を放っておけば、また同じようなことをしでかすかもしれない。もし本当に文次郎が存在しているのなら、なんとかしたほうが良いと思うが。
(でもなぁ、僕ただのアルバイトなんだよな)
それも夏休みの間だけ、たった二か月の仕事だ。危険なことには関わらずに無難に過ごすのが賢明だろう。無責任な話かもしれないが、この二か月を乗り切ってしまえばもう図書館とは永遠にさよならだ。放っておけばいい。
けれど幽霊のことがすごく気になる。彼にもう一度会って本物かどうかを確かめてみたい気もする。
雨宮姫は実に嫌そうな顔をしていた。
「君に対する判断は保留しておく。まだ書庫に入ったばかりで気疲れも多いだろう、私も今日は疲れている。引き続きブッカームたちから噂を聞きだしてくれ」
「あのっ……」
立ち上がった彼女を思わず呼び止めていた。自分でもどうして声をかけたのか分からない。せっかく話を流してくれたのだ、そのまま退室すればよかったのに。呼び止めておきながら何も言えないでいると、彼女は冷たい目で振り返ってきた。
「――もし本当に幽霊なんてものがいるのなら。私としては、視えるという君に責任をもって退治してもらいたいところだな」
話は終わりだと彼女の強張った背は告げていた。
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