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――『おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません。こちらは……』――
「くそっ! 雨宮のやつ!」
うだるような昼日中の熱射を浴び、休憩時間に外へ出て友人の雨宮へ電話をかけてみればこれだ。圏外。冷静に考えれば海外へ遊びにいった友に電話がつながるかは謎だが、送ったメールに返信がないのも腹立たしい。
(あいつが帰ってきたら文句言ってやる!)
僕があの書庫で働くことになった責任の一端は、仕事を紹介してきた友人にある。腹立ちまぎれに八つ当たりしながらヘルに戻ると、兎さんと甲把が待ちうけていた。
「お帰りぃ、小雀くん。君にいいお知らせだよ~」
「えっ」
へらりと笑う甲把は白衣の余った両袖を振ってくる。
「今日からしばらくヘル預かりだって~。おめでとう、そして正式にうちのフロアへようこそ!」
「あ、はあ……どうも」
しばらくヘルで働くと聞かされ、僕の笑みは引きつったかもしれない。
種類の差こそあれ書庫で働くのは総じて大変だし、何よりこのフロアには幽霊が潜んでいるのだ。
(むしろ他のフロアの方がマシだったかもしれない)
僕の反応を違う意味で受け取った兎さんがしっかりと頷いた。
「大丈夫、心配しないで。不安だろうけど私がみっちり研修してあげる。忙しくなる時間以外に水揚げの練習をしていけば良いから」
「兎ちゃん、頼もしぃ~!」
兎さんはへらつく甲把を睨みつけると、数枚の紙を渡してきた。
「とりあえず今日はここに書かれた本を集めてきてほしいの。水揚げを練習してみよう」
「あ、はい」
「小雀くん、ヘルの地図は持ってる?」
「頂いています」
「この間、英さんとぐるっと一周してきたでしょ。もうひとりでも迷わないよね?」
「えっと。はい、たぶん」
曖昧に頷けば甲把がまた茶々を入れた。
「兎ちゃんスパルタぁ~!」
「甲把さん、いい加減にしてくださいよ。ただでさえうちは人手不足なんですから。小雀くんには早く仕事を覚えてもらって、戦力になってもらわないと。それに本来であればあなたがこういった研修をすべきなのでは?」
「だって僕より兎ちゃんのが向いてるもん~」
「そうであってもしゃんとして頂かないと困ります。私がこの間お願いした物品の発注、もう終わってます?」
「そのうちするよぉ」
「してください。今すぐ」
どんなに凄まれても甲把はどこ吹く風だ。このヘルで仕事を回しているのは兎さんのようだった。
「小雀くん、もし本が見つからなかったら戻ってきていいから。それから無いとは思うけど、万が一迷子になったらできるだけ広い通路を進んで、階段かエレベーターを探して」
「広い通路?」
「そう。もし何らかの理由で動けなくなったら、こっちが気づいて助けに行くまで待ってて。倒れるならエレベーターの前で倒れて。そうでないと見つけにくいんだ」
「はい……」
倒れるとか動けないとか、そんなことはまず起きないだろうが、真面目くさった顔で注意されると怖くなってくる。地下十六階から二十三階まで八フロアにいる人員は、いま休憩に行っている十朱と物集を含めてもたった五人だ。急病や体調不良でひとり見当たらなくなったら、とっさに動けるのは四人だけ。
(改めて考えるとすごい職場環境だよな)
これでは誰かいなくなっても気づかない、体調不良でいき倒れていてもエレベーターか階段のそばでなければ助けすら早々こないのだ。
甲把が安心させるように笑った。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよぉ。書庫で倒れる人なんて、夏場の忙しい時期に数人だけじゃない」
「だから、万がいちの話です」
数人は倒れるらしかった。
ふたりのおそろしげな話を背に聞き流し、僕は渡された紙に書かれた本を集めるため階段を降りていく。紙にある棚番号と地図を見比べて、目当ての書棚までなんとか辿りつけた。
書棚のなかに指定された本を見つけてほっとした、そのときだった。
『その本に触るでない』
伸ばしかけた腕を掴まれた。
驚いて横を見ると文次郎が立っている。
青縞の着物にちょんまげ姿の彼は、親の仇でも見るように僕をすぐそばから睨みつけていた。びっくりした衝撃で手から持っていた紙がハラリと落ちた。
「も、文次郎――」
『その本は諦めよ。さもなくば、よからぬことがあるぞ』
文次郎が言っているのは、今まさに取ろうとした白い表紙の本のことだ。
鋭い眼光に押され、慌てて頷く。
「わ、わかったから! 手を、……放して」
『本当か? 分かればいい』
ゆっくりと離れていく文次郎はそれでもまだ疑わしそうに見ている。掴まれていた右腕をそっとさすると、ひんやりした感触と強く握られた衝撃が皮膚に残されていた。
(本当に幽霊なのか?)
『何を見ている?』
目を瞬かせ不思議そうに見てくる文次郎の挙措はとても人間らしかった。
「文次郎は、本物の幽霊?」
すると彼は真顔でためらいなく壁へと片腕を伸ばした。手のひらから腕までをずぶずぶと壁へめりこませ、沈めていってしまう。
「うえっ!?」
文次郎の肘まで壁の中に入っている。物体をすり抜けるというのは人間わざではない。
『これで満足か? 儂はたしかにこの世のものではない』
「やっぱり、本物だ――本当に悪霊っていたんだ」
『なに悪霊? 失敬な。儂は良い幽霊だぞ』
「だって悪さばっかりしてるじゃないか。このあいだ英さんが転んだときには、一歩間違えたら大怪我するところだったんだぞ」
『そうなれと思ってやったからな。うむ、あれは惜しかった』
「なんでそんなこと……! 僕らになんの恨みがあるっていうのさ」
(やっぱり悪霊じゃないか)
文次郎はきょとんとした顔だ。
『べつに主らに何の興味も無いわ。儂は本を守ろうとしただけだ』
「本を、守る?」
文次郎は棚に並ぶ本を我が子のように微笑み、眺めている。
『あまねく本というのはなにより価値があるものだ。民草に知と喜びを与え、なにより個の世界を広げてくれる。本なぞ役に立たぬという者もおるが、それは愚か者の主張よ。すべての本には役割があり、読む者はそれを受け入れねばならぬ。本に相対すものはみな、誰であれ敬意をもって接すべきなのだ。それを――主らはなんとも粗雑に扱うのう。先の梯子から落ちた者とて、本を捨てるなぞと罰当たりなことを吐かしおったわ』
「あれは、捨てるんじゃなくて書庫から移すって話だったじゃないか! それをお前が勝手に勘違いしたんだろ」
『ふん。そうだったか?』
先日ヘルの見回りをした際に、英さんは「本を処分する」と言ったのに、文次郎は「本を捨てるのだ」と勘違いし、英さんに危害を加えようとした。梯子のキャスター引き、地面にふり落としたのだ。
(僕らは仕事してるだけなのに、あんな風に邪魔されるなんて)
『どちらにせよ、あの者の態度は本に対すに相応しくなかった』
「そんなことない、普通だったろ。ここで働いているだけなんだ。文次郎がいろんな悪さするから、ややこしいことになってるんだからな!」
文次郎が書庫の本を勝手に移動させて床にばらまいたりしたせいで、ヘルのみんなは書庫に誰か不審者が潜んでいるのではと不気味に思っている。英さんと僕が書庫を見回ることになったのもそのせいだし、書庫の統括責任者である雨宮姫にいたっては、文次郎の悪戯は誰か他のブッカームの仕業だと考え始めている。
(みんな幽霊がいるって言っても信じてくれないし)
文次郎はとんでもないことを口にした。
『儂がなんの悪さをしたと言うのだ?』
「ハァ!? 書庫の本を勝手に動かしたろ!」
『おぉ、たしかに。動かすだけではない、隠してもやったぞ』
「えっ!?」
どこに……とそこまで考え思い出す。兎さんが言っていた「行方不明本が多い」という現象も、どうやら文次郎のせいだったらしい。
(それも動かすだけじゃなくて、積極的に隠してるなんて)
なんとも迷惑な話だった。
『なにも悪意があって隠したわけではない。それに隠すのは、主らが集める本の一部だけだ』
「集めるって、――ひょっとして水揚げで上に送る本?」
『うむ。本が見当たらぬと言って半泣きで探し回っておった。愉快であった』
「悪意ありまくりじゃん!」
どうやら水揚げで依頼のあった本をブッカームが集める前に隠していたらしい。本が見つからないと右往左往しているのを横でにやつき眺めていたようだ。聞けば悪質きわまりない。
「なんでそんな嫌がらせするんだよ!」
『嫌がらせではない。儂は本を守っておる』
「だからなんだよそれ、意味不明だよ本当にもう」
『よいか。儂にはわかるのだ。――たとえばこの本』
文次郎が「この本」と手に取ったのは僕がここへ取りにきていた本だ。白い背表紙のハードカバーで何ということもない一冊。水揚げの練習用にと指定された本だ。
『この本を上に持って行けば、おそらく良からぬことがある』
「なに? よからぬことって」
『それは分からぬ。しかし儂には分かるのだ。このあたりにある本の中でいっとう匂うておるからな』
(匂う……?)
顔を本に近づけ鼻をひくつかる文次郎は、臭いものでも嗅いだみたいに眉をしかめた。
『災いの匂いよ。主らがこの場所にある本をどこか上の階へ運んでいくことは知っている。おそらくその運ばれた先でなにか良からぬことが起こるのだ。それが儂には匂いで分かる』
僕はぼんやりと文次郎を眺めていた。
(さっぱり分からないや)
『災いの匂い』とか言われたところで僕には何も匂わないし、それは普通の本だ。『よからぬことが起こる』ってなんなんだろう、すべてが意味不明である。
「なんかよく分からないけど、もういいや。とりあえずその本は持って行くよ」
『おい、儂の話を聞いておらなんだか。この本を上へ持って行ってはならぬぞ』
「上って、書庫の中ならいいだろ? 僕いま水揚げの練習中なんだ。本を集める練習でちょっとそれを取りにきただけだから。すぐに返すからさ」
もうあまり相手をしない方がいいかもしれない。たとえ文次郎がなにかしようとしてきても、僕には彼の姿が見えている。気をつけていれば英さんのように梯子から振り落とされることもないだろう。最悪の場合、走って逃げればいい。
(なにより、あんまり怖くないしな)
文次郎はまったく幽霊らしくない。言動はおかしいが、普通にしていれば人間と判別がつかない。さほど恐れる必要もないだろうと、彼を無視し好きに振る舞うことにした。
『む……まぁ、上の階へ持って行かぬのならいいだろう』
文次郎はそう言って引き下がった。彼が嫌だったのはこの本を上階へ水揚げすることだけのようだ。僕は「匂う」という白い本を手に取り、しげと眺めてみる。
(本当に普通の本だけど)
鼻へ近づけても特に何の匂いもしない、当然のことかもしれないが……しいていえば少しかび臭い。
「小雀くん――!」
遠く誰かが走ってくる足音と声が聞こえた。
棚の隙間から覗いてみると、駆けてきた兎さんがほっと息を吐く。
「よかった。さっき練習で渡した紙の。その辺にあるはずの本なんだけど、たったいま水揚げ依頼が来たんだ。見つけたら三階に送っておいてくれない?」
「あ、……はい」
兎さんは水揚げの本を集めに来たらしい。彼女の手には他にも数枚の紙が握られている。
「あの、なにか手伝いましょうか?」
「いいよ、珍しくちょっと出ただけだし。甲把さんも十朱も、物集だって上でまだ暇してるんだ。じゃそれ、出来るだけ早くよろしくね」
「はい……」
軽やかに去る背を見送り横目で文次郎を窺うと、涼やかな顔には険が戻っていた。
『ならぬぞ。よからぬことが起こる』
「そう言われてもさ、仕事なんだから」
『上へは運ばぬと言ったではないか』
「さっきはね。……邪魔しないでよ? 仕方ないんだから」
僕は白い本を手にそろりと一歩彼から距離を取った。
すると相手も開けた距離分を一歩、にじり寄ってくる。
『それを渡せ。許さぬぞ』
「なんでだよ! 文次郎の本じゃないだろ?」
『儂は本を守らねばならぬのだ。置いていけ』
「嫌だ。どうして僕が言うこときかなきゃならないのさ――げ」
文次郎は刀を抜いていた。しゃらりと鋼のこすれる音がして、白銀のきらめきが向けられる。
『もう一度言うぞ。その本を渡せ』
「ははは、冗談、止せよ……」
笑いながら後ずさる足が止まらないのは、文次郎の抜いた刀が本物に見えたからだ。
僕は幽霊の体に触れられる。彼の手にしたきらめく日本刀が、僕の血肉を物理的に貫通しない保証はない。
(かといって言われた通り本を渡すわけにもいかないし)
上の閲覧フロアでこの本を読みたいという人が、書庫からの水揚げをいまかと待っている。これは仕事なのだから仕方がない――それに毎回文次郎にこんな風に水揚げを邪魔されていては仕事にならない。
少しずつ後ろへ下がっていくのを見て、文次郎は何を思ったか刀を静かに黒鞘に納めた。
『よくわかった。お主の考えは』
「え、そう?」
僕がひと息ついたときだ。文次郎はあらぬ方向を指さした。
『あっ!』
「えっ!?」
『御免!』
つられて振り向いた僕の手から本を掠め、文次郎は脱兎のごとく逃げ出してしまう。
しばらく唖然としていて、はっとした。
「あ……」
盗られた。空っぽになった右手を一瞬見て、慌てて文次郎が曲がった角まで追いかける。
すでに誰の姿もない。無人のうす暗い本棚が続いているのみで、見回してみても文次郎はどこにもいない。
「文次郎!?」
当然のことながら返事はなく、それから数分を僕は書庫で空しく消えた幽霊を探すはめになった。
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