Afterwordは君の手で

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 おのれが何者かわからないと、そう文次郎は言う。  本を集めるのを手伝ってもらいながら、文次郎の話を詳しく聞いてみることにした。 「わからないって、君は文次郎なんだろ?」 『うむ。名前が文次郎だというのは覚えておる。問題は他のことなのだ』 「他っていうと?」 『それが思い出せぬのだ。名以外のすべてが』 「なるほどね」  よいしょ、と巨大な本を棚から降ろし相槌を打つ。  いま僕が抱えているのは「新聞製本」だ。  普通の新聞紙を広げた状態で綴じたもので、これが縦に長くて幅もある。重いので棚から降ろすのにも苦労する。水揚げで指定された年度のものを一冊一冊棚から抜き出し、持ってきた台車に積み上げていく。それを文次郎が横で腕組みし眺めている。  僕は文次郎の望みを聞き入れることにした。  この書庫にある本のありかを教えてもらう代わりに、文次郎の話をまずは聞いてみることにしたのだ。 (なにを要求されるかと思ったけど)  「自分のことを思い出したい」という彼の望みは、誰に危害を及ぼすものでもない、僕の仕事の妨げにもならないことだ。文次郎に協力して代わりに水揚げの手伝いをしてもらえば、互いにいい関係を築けるだろう。  巨大な新聞製本を十冊ほど台車に積み終えて、僕は汗を拭う。 「そういえば文次郎、いつから書庫にいるの?」 『はて。時の流れというものはよくわからぬ。ここでは陽ののぼり降りも見えぬでな』 「そりゃそうだろうけどさ」  地下奥深くにいては窓すらないので、今が何時かですら分かりにくい。けれど僕が聞いた「いつ」とはもっとスケールの大きな意味だった。  小首を傾げる文次郎をつい上から下まで眺めてしまう。 (どう考えたって現代人じゃないよな)  着流しに下駄、腰には帯刀、頭にちょんまげである。予想では武士か侍のいた時代、戦国や江戸の幽霊に見えるのだが。 「じゃあさ、本は読める?」  集めた本を山盛りに乗せた台車を押していると、文次郎はゆったりと横を歩きながら首を振る。 『字は読めるが、ここにある物の大半は読めぬ。それで難儀しておるのだ……おい、お前の探していた雑誌とやらはこちらだぞ』 「あれ? でももらった地図に向こうだって書いてあるけど」 『それは地図が間違えておるのだ。この場でずっと奴らの話を聞いてきた儂が言うのだ、間違いない』  足を止めて地図を確認する僕を、文次郎は自信ありげに急かしてくる。  大量に本が積まれた台車を押すのはかなりの重労働だ。一度足を止めればとめどなく汗が流れ出し、それがポタポタ床へ落ちていく。  書庫の中はクーラーがついていないので蒸し暑く、タオルで汗を拭っても拭っても無意味だ。台車を押す両足と腕が早くも疲労を訴え始めている。 (他の人たちは今頃どうしているのかな)  僕はヘルの最下層部、地下二十三階にいるのだが、今のところ誰ともすれ違っていない。誰かがいると文次郎と話しづらいのでそれはそれで助かるが、こうも他の人と会わないと不気味だ。 (地下・十六階から二十三階までがヘルだから、八フロアあれば結構な広さだな)  ひとつの階にかなりの面積があるので、一度散り散りになってしまうとブッカーム同士が会うことはまれなようだ。個々人へ振られた仕事をこなすしかなく、どこかで誰かが倒れていてもこれでは全くわからない。  文次郎に言われた通りに進んでいくと、なるほど、彼の主張どおりに地図に書かれていない場所に、大量に雑誌の製本が置かれていた。 「これさ、ひょっとしてこの地図は全く信用できないんじゃないか」 『うむ。ここで働く者たちも、あまりその図は頼りにしておらぬぞ』 「何のための地図なんだよ……」  文次郎に助けを求めることにして正解だった。でなければ今ごろ、地図を片手にひとつも本を見つけられず、甲把や他の人の姿を探し回っていたかもしれない。 「で、さっきの話だけど。君は本が読めないって言ったけど、この間は座ってなにか読んでたじゃん」 『だから、読める本もあるのだ。なにか手がかりが無いか、時々ああして調べてみては、結局なにも見つけられぬ。絵がたくさんある本も眺めてはみるが、なにぶん分からぬことが多く困っておる』 「ふぅん。他になにか覚えてることは本当に無いの?」 『なにも』 「家族の名前とか職業とかは?」 『家族? ……分からぬ、儂にもいたのだろうか』 「そりゃ、いたんじゃないかな。親とかさ」  話を聞けば聞くほど手詰まりに思える。文次郎は本当に自分の名前以外なにも覚えていないみたいだ。彼の「自分のことを思い出す」手伝いを安請け合いしてしまったが、とんでもなく面倒なことだったかもしれない。 (どうしたもんかな)  文次郎のことも問題だが、当面の問題は目の前の水揚げである。 台車を非常にゆったりと、けれど渾身の力で押してきて、僕は搬送機の前で困り果てた。  運んできた本のサイズが大きすぎて、とても搬送機に収まらないのだ。上階へ本を送るためにはベルトコンベアーのような搬送機の箱に入れるしかない。しかしその肝心の箱より、新聞製本の方がずっと大きい。 (一冊ずつ――だめか)  白いプラスチック製の箱もかなりの大きさだが、新聞製本の方が大きい。本を立てたり斜めにしたり、四苦八苦しているのを見て文次郎が横から口を出した。 『それでは運べぬぞ。直接、台車で上へ運ぶしかあるまい』 「そうかなぁ」 『その本を運ぶときには、みなそうしておったぞ』 「そうするとエレベーターで、この本の送り先の……四階まで行かないと。そういえばさ、文次郎ってここから出られるの?」  文次郎は地下書庫から地上へと出たことがあるのだろうか。  彼は目を細め考えこんでいる。 『まぁ、出来なくはないな』 「もし出たことがないなら、一度出てみたらどうかな。何か思い出すきっかけになるかもよ」  文次郎は顔を曇らせるばかりだ。 『この場から離れたくないのだ』 「どうして?」 『む……よくは分からぬが、本がたくさんあるのが落ち着くのだ。本のそばを離れると不安になる』  文次郎は言いながら不審げに首を傾げている。彼は自分でも説明のつかない気持ちを持て余しているようだった。 「本なら上にもたくさんあるよ。君が気に入るかはしらないけど」  ここは図書館、書庫ほどでなくとも上の開架フロアにだって本は山ほどある。  文次郎にエレベーターの場所まで先導してもらい、そのすらりとした背を不思議な気持ちで眺めていた。 (どうしてそんなに本が好きなんだろう?)  彼が本を守ろうとしていることが不思議だ。文次郎は書庫にある本のほとんどを読めないと言う。内容も分からない本を、なぜそうまで大切に思えるのだろう。  公共の図書館の本はだいたい、文次郎の私物ですらない。 (それを好き勝手に扱って『本を守るのだ』ってなぁ……) 『よし、決めたぞ。儂もお主の言う通り、今日はここから出てみよう』  エレベーターの前で足を止めた文次郎は、意を決し勢いよく振り返ってくる。  本当についてくるとは思わなかったのですこし驚いたが、それならそれで構わない。 「でも他の人がいるところでは話せないからね」 『うむ。お主が先日のようにひとりで喋って馬鹿のように見えるでな。安心しろ、心得ておる。そうと決まればお主に取り憑いて――』 「え、ちょっと。取り憑くってなに」  文次郎はきょとんと見返してくる。 『そのままの意味だ。儂がこの地下から出るには、誰かに取り憑くしかない。お主の背に憑いて、ぴったりと離れぬようにしておかねば、風に巻き上げられてどこかへ飛んでいってしまう』  以前に書庫の外へ出たとき、誰にも取り憑かなかった文次郎は建物の外へ出た瞬間にそよ風に飛ばされ、あっという間に見知らぬ場所へと移されてしまったらしい。 『あの時はここまで戻ってくるのに苦労した。もうあんな思いは御免だ』  眉根をよせて語る文次郎を見てひらめいた。 (文次郎をここから追い出すには、建物の外へ逃がせばいい……?)  たったそれだけのことで退治できるなら、とても簡単だ。 (いやでも結局、戻ってきちゃってるしな)  どういった方法を使ったかしらないが、外へ飛ばされても書庫へ戻ってくるなら無意味だ。 「外へ出て、どこかへ行こうとは思わなかったの?」 『それが不思議に考えなんだ。儂の居場所はこの地下だと、なぜかそう思えるのだ』  遅々として降りてこないエレベーターを待つ間、文次郎は『では早速』と僕の後ろにぴったりくっつく。肩から背中にかけて異様に重たくなり、首筋を氷で冷やされたように寒気が瞬時に走り抜けていく。 「うわっ、寒い! なんか異様に冷たい!」 『これで安心。では、儂に関わりのあるものを探しに行くとしよう』 「いや違うから。この新聞製本を水揚げしに行くだけだから」  文次郎が後ろに憑いてしまったので、姿は見えないのに声だけが聞こえる不思議な状態だった。耳もとで囁かれている感じで、じゃっかん気持ち悪い。 待ち続けていたエレベーターには人が乗っていた。地下二十三階へやってきたのは、空の台車を押してきた汗だくの兎さんだった。 「あ、いた。小雀くん、調子どう?」  降りてきた彼女と入れ替わりに中へ入り、僕は頷く。 「まだ全然集められてませんが、とりあえず――あの、この新聞製本が大きくて。上に持って行ってもいいですよね?」 「うん。あ、ちょっと待って」  兎さんは僕の握っている未処理の紙束を差し出させた。 「私の方はさっき終わったから、残りの分は集めとくよ。小雀くんもそれが終わったら、いったん地下二十階に戻って。甲把さんに言ってお昼とってきなよ」 「はい、すみません」 「いいよ。むしろ助かったし驚いてるの。小雀くん、意外に分量を集めたよね」  そう言って台車をしげしげと眺めた兎さんは、笑って手を振ってくれる。 エレベーターが閉まり、ゆったりした動作で上昇をはじめると、文次郎がぽつりと零した。 『あの女子は……好きだな』 「えっ」 『まず間違いなく好いておるぞ』  主語はなかったが、なんとなく頬が熱くなる。 「いやいや、えっ本当に? 本当に兎さんが? でも僕は……なんで分かるの?」 『見れば分かる』  自信ありげな文次郎の声に、心臓が激しく脈打ちはじめる。兎さんは美人だ。はじめはとっつきにくい人だと感じたが、話してみれば親切だし仕事も丁寧に教えてくれる。 (もし兎さんが僕のことを――いやいや、そんな馬鹿な) 『なんだ、お主何を考えておるのだ? 儂はあの女子は本好きだと、そう言ったのだぞ』  文次郎の訝しげな声が僕に冷水を浴びせた。ここからでは見えないが、きっと太い眉をくいっと呆れたように上げているのだろう。 「本好き」 『そうだ。あの女子をひと目見てわかった。本に対する愛情が、所作の端々から見てとれる。対してお主はどうだ。あまり本を好いておらぬな?』 「そうかもね。僕、電子書籍派だし」 『でんししょせき。なんだそれは。本を読まぬのか?』 「読むよ。でもたしかに、あんまり本好きじゃないかも」  文次郎に力なく答えながら、上がっていくエレベーターの階数表示を見て考えていた。  僕は「本」を所有しない。  ネットで電子書籍用のデータを購入はするが、物質としての本を入手したいとは思わないのだ。電子書籍での読書を選ぶ人には色々な契機があるだろうが、主に次のふたつに分けられると思う。  つまり、本を愛する活字フリークと、物を所有するのが面倒くさいタイプだ。  前者の場合は電子書籍に加え、紙の本も購入していることが多い。  彼らはただ、いつでもどこでも活字に触れたいという愛好家であり、移動時に便利だから電子書籍を選ぶわけだ。そういった人たちは元来本好きなので、家に行くと壁一面に本棚があったりする。  一方、僕は後者に含まれる。読書は好きだがさほどではないし、物としてかなりのスペースを取る本を部屋に置くくらいなら、データで十分だと考えてしまう。  電子書籍リーダーが壊れればデータが吹っ飛ぶという危険はあるが、おかげで僕の部屋はすっきりとしている。だから分からないのだ。 (どうして全部、電子化しないんだろう)  この図書館の書庫が良い例だ。これだけの本を物量として保有し、人や労力を大きく割り当てている。コストも尋常ではないとよくわかる。  蒐集型図書館は、すべての出版された本の収集を至上の目的としているそうだ。本を移動するのも手間だが、保管するのも並大抵のことではない。書庫にある本の一部だけでも電子化できたなら、働く側だけでなく図書館を利用する人たちだって大きく時間を節約できるはずだ。  だから文次郎のように紙媒体としての本に思い入れがあるというのが、いったいどういうことなのか理解に苦しむ部分もあった。僕にとっての「本」とは買い替えのきく物質であり、電子書籍リーダーで読めるネットの記事とさほど変わりないのかもしれない。それを告げれば文次郎が怒り狂いそうなので、黙ってはいるが。 『本が好きでないとは、お主は人生の最良の部分を逃しておるぞ』  諭すように告げる文次郎は、僕とそう歳も変わらぬ外見のくせにやけに尊大だ。 「別に嫌いだなんて。文次郎はどうしてそんなに本が好きなの?」 『ふん、そんなものひと言では語れぬわ。ただな』  エレベーターが非常にゆっくりとした速度で止まり、地上四階で扉が開く。 『……いや、着いたぞ』  文次郎が何を言うつもりだったのか。彼がどういった理由で本が好きなのか、結局僕は聞きそびれてしまった。
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