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僕が友人・雨宮(あめみや)の思惑に遅まきながら気づいたのは、バイト初日のことだった。
出勤一日目の朝、国立第一図書館へやって来た僕はまずその外観に圧倒された。
(大きい!)
近代的な「国立第一図書館」は縦にも横にも広かった。東京の六本木あたりにある高層ビルに似ている。
建物の壁は一面水色の曇りないガラスに覆われ、夏の熱射光にぎらついている。
正面玄関の前にはモダンな池が水を張り、その上を白い橋の道が続く。
国立第一図書館は見た目だけなら美術館、もしくはモダンなオフィスビルだ。
自分が通う大学から近い距離にこれほど大きな図書館があるなんて知らなかった。
(まぁ、これだけ大きくて綺麗な場所で働けるっていうのは嬉しいかな)
あらかじめ電話で場所を聞いていた職員用の通用門へ歩いていくと、そこに待ち合わせをしていた「英(はなぶさ)」という人物が立っていた。
明らかに脱色したと分かる栗色の髪にわし鼻、切れ長の目元。
どことなくヴァンパイアを思わせる風貌で、背筋をぴんと伸ばしている。
白Tシャツに黒ズボンというラフな格好の彼は、苛々と貧乏ゆすりしていた。なんとなく話しかけづらい雰囲気だ。
「あの僕、小雀(こずめ)です。あなたが英さん?」
「そうだ、遅いぞ! まったくいつまで待たせる気だ!?」
「えっ、す、すみません!」
「この忙しい時期になんで僕が。ほら行くぞ」
そう言い捨て早足で歩いていく彼の背に茫然としてしまった。時計を確認しても約束の時間よりまだ五分ほど早い。遅刻していないのに「遅い」とはなぜ。
前を歩いていた英さんはこちらを見て不機嫌な顔をする。
「お前、仮にもここで働く気なら『五分前』程度じゃやってけないぞ。僕はこの暑熱の中をお前のために十五分も待ってやったんだからな」
「はぁ、それは」
なんだか複雑な気分だった。申し訳ないと謝るには相手の態度が上から過ぎてなんとなく嫌だ。というか、英さんって一体何歳なんだろう。ぱっと見た印象では僕と同じくらいの歳に思えるが。
前を歩く英さんは白シャツに黒のスラックス、胸に銀のネームプレートという出で立ちだ。廊下ですれ違う人たちもみな同じような服装なので、それがここの制服なのかもしれない。あたりを見回していると、前を歩いていた英さんがいきなり振り返ってきた。
「いいか、ここから開架フロアになる。一般の人がいる場所だからくれぐれも、静かに早足で歩けよ」
「早足?」
「僕は急いでるんだ。何度も言わせるな」
行くぞ、と促され廊下の先にある扉を開けると、そこはもうだだっ広い図書館の内だった。
クリーム色の清潔感ある床の上にどこまでも本棚が続いている。
壁際にずらりと棚があり、フロアの真ん中には腰ほどの高さの書棚がゆったりとした間隔で配されていた。
まだ開館したばかりなのにソファーや椅子はすでに満席になっている。今日が夏休みで休日だからかもしれない。図書館は思っていたよりも混沌としていて人であふれていた。
「ほら歩け。キョロキョロするんじゃない!」
小声でそう急かされ、足取りを早くする。フロアの真ん中に来ると、貸出しや返却を行うカウンターが見えてきた。バーコードリーダーの端末がカウンターに十台ほど設置され、担当の人が本の貸出しや返却を行っている。カウンターの前にはスーパーのレジのように長蛇の列ができている。カウンター前に並んでいる全員が本を手にしているので、本を借りに来たか返しに来た人たちなのだろう。ざっと見て十人以上がカウンター前に列をつくっている。
「うわぁ」
思わず驚きの声を上げれば、英さんが鼻で笑った。
「こんなの序の口だ。これからもっと忙しくなる」
「図書館って意外と忙しいんですね。あんな風にてきぱき接客できるかな」
「ハァ? お前が働くのはこのフロアじゃないぞ」
僕の独り言を拾った英さんは、片眉を上げるという器用なジェスチャーをしてみせた。
案内されたのはカウンターの奥にある職員用らしきエレベーターだ。英さんは下のボタンを押してエレベーターが来るのを待っている。
「お前はブッカームなんだろう? 開架フロアはもちろん忙しいが、地下の比ではないと聞くぞ。まぁ、地下のことは僕にはよく分からないがな」
「ぶっかーむ……て、何ですか?」
「そんなことも知らずにここへ来たのか? 詳しいことは須磨に聞け。須磨がお前の面倒をみることになる。ほら来たぞ」
英さんが指さしたのは、エレベーター脇の非常扉から出てきた背の高い青年だ。
健康的に日焼けした彼は英さんを見て豪快な笑みをのぞかせた。
「いやぁすまない! 今日はどこもかしこも手薄で手間取った!」
「遅いぞ須磨! 危うく僕がこいつを連れて直々に下まで降りるところだった!」
「ははっ、それは困るな! また姫に怒られっちまう。おっ、君が小雀くん? 俺が主任の須磨だ、よろしくな」
「ど、どうも」
差し出された手を握るとゴツゴツとして大きい。すこし汗で湿っているのは、彼がここまで走ってきたせいらしい。須磨の額や鼻がしらには玉の汗が浮いていて、英さんは顔をしかめた。
「須磨、早く戻らないとまずいんじゃないのか? ただでさえ使えないのを抱えこむんだ、お前のフロアは――」
すると須磨はにっこり笑って僕の背を力いっぱい叩いてきた。スキンシップが激しくて痛い。
「なーに大丈夫! 小雀くんならちゃんとやってくれるとも。だが英よ、君の心配はありがたく受け取っておくぞ」
「……僕が心配なのは業務の滞りなんだよ」
腹立たしげに舌打ちした英さんは僕を見て、きりっと眉をつりあげた。
「いいか、くれぐれも僕たちの足を引っ張るなよ。時間通りに正確に働け」
「はぁ」
英さんが何を言っているのかわからない。朝、すこし彼を待たせたことを根にもっているのだろうか。
話を聞くかぎり僕はここではなく図書館の地下で働くようだが、地下にも同じように図書フロアがあるのだろうか。よく分からない、この図書館へ来るの自体はじめてなのに。
下からエレベーターが上がってくると、須磨に押しこまれる形で僕も狭苦しい空間に乗りこむ。職員用エレベーターの空調はゆるく、生ぬるい空気が立ちこめている。
須磨は扉の開くボタンを押したままでご機嫌に笑っていた。
「よし小雀くん! 見送りに来てくれた英お兄さんにさよならの挨拶だ」
「っ、いいからとっとと戻れよ!」
地団太を踏む勢いで怒り出してしまった英さんに須磨は軽く笑い、扉を閉めて行き先フロアのボタンを押す。光る階数表示を思わず二度見してしまった。
(地下……十二階!?)
「よし、出発ーっ!」
ガコン、と音がして奈落の底まで続きそうなエレベーターは動き出した。
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