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結局その日は兎さんや須磨の後をついて走るだけで一日が過ぎてしまった。
僕には書庫の配置をぱっと見ただけで頭にたたき込むことができなかった。
『スカッシュ』は地下八階から十五階までの八フロアにまたがっており、そのすべてをすぐに把握することは難しい。地図を眺めながら時間をかけ本を探すことはできるだろうが、水揚げは必ず十分以内に行わねばならない。今は一冊を探すのにも手間取る状態で、まずは大体の地図とフロアごとに置かれている本の種類を丸暗記しないと、この書庫で働くことは無理だ。
ただ人の後ろをついて走るだけなのに汗だくになり疲弊してしまった僕は、夕方にもなると声も出せない状態になっていた。普段の運動不足が悔やまれるが、そもそも僕は運動をするつもりでここへ来たのではない。冷房つきの楽で暇な仕事を求めて図書館へ来た僕にとって、このギャップは中々にむごいものがある。
須磨に若干心配されながらそうして一日中を走り続け、地下十二階のエレベーターの前に戻ってきた時、そこに英さんがいた。相変わらず不機嫌な顔で仁王立ちしている彼は、苛立たしげな顔をさらに歪めてくる。
「遅いぞ須磨! この時間に上へこいつを寄越すようにと言っておいただろう!?」
「あ、あー……すまん。忘れてた」
須磨がバツの悪そうに時間を確認するので、僕もつられて腕時計を見る。
いまは夕方の五時過ぎだ。書庫で働いていると外が見えないため、時間感覚が狂って一日が過ぎるのがあっという間に感じる。昼休憩を挟んでから実に五時間は走りっぱなしだったことになる。須磨は肩をすくめている。
「小雀くん、ぎりぎりまで悪かったな。ここはもう大丈夫だから、今日は英と一緒に上がって帰っていいぞ」
「はい……お疲れさまでした」
何はともあれ今日の業務は終わりのようだ。僕がそう安堵のため息をついてお辞儀をすると、須磨が「そうそう」と呼び止めてきた。
「これを君に渡しておかないとな、兎にさっき怒られたんだ。持ち帰って明日までに覚えてきてくれ」
「これは……?」
須磨に手渡されたのは一冊のクリアファイルだ。中には数十枚の紙が分厚く挟み込まれている。
「この書庫の業務マニュアルとスカッシュの地図だ。とりあえずこれだけ見てきてもらえば、君なら明日にはひとり立ちできるだろう」
「え……僕、明日にはひとり立ちなんですか!?」
「大丈夫だ小雀くん。君なら気合いで何とかなる! 何より研修をしている時間がもうないからな!」
僕が渡されたファイルの束を唖然と眺めていると、横から英さんがじと目でこちらを見て言った。
「大丈夫なのか? こいつにひとりで仕事を任せて、もし失敗なんかしたら」
須磨は満面の笑みだ。
「もちろん大丈夫だとも! もし失敗したら俺が丸刈りになってもいいぞ! なぁ小雀くん」
「えぇっ!? が、頑張ります」
英さんは口をへの字にしている。
「ま、いいけど。時間が押してるからもう行くよ、ほら」
英さんに促され慌てて僕はエレベーターに乗りこんだ。地上十階のボタンを押しエレベーター内でふたりきりになると、彼は皮肉な笑みを浮かべた。
「今日一日でもう辞めたくなったんじゃないか? 思ってたよりハードだったろ」
「いえ、思っていたより、というか」
想像すらしなかったという方が正しい。僕が友人の話から予想していた「図書館の仕事」とは全く異なるそれに困惑するだけの一日だった。ただひたすら意味もなく走り回っていただけにも思える。
(辞めたいかと聞かれると、もうかなり辞めたいかも)
「辞めるなよ」
すると僕の内心を読んだように英さんが言う。
「お前に辞められると僕が困る」
「えっと」
「僕が今日お前のためにどれだけの時間を割いたと思ってるんだ。この忙しい時に、僕の時間と労力を無駄にしたら許さないからな」
あんまりな言いぐさに思えるが、彼の立場からしてみれば当然かもしれない。仕方なく僕は頷く。
「辞めませんよ、まだ初日ですし……あの、ところで今、どこに向かってるんですか?」
「契約の話をまだしてなかっただろう。記入してもらわなきゃならない書類もあるから、須磨にこの時間にと伝えておいたんだけどな。聞かなかったか?」
「……聞いてません」
考えてみれば、朝ここへ来ていきなり書庫へ連れて行かれ、わけもわからぬままにきてしまったが、給与の振り込み先やバイトの雇用条件などの話を全く聞いていなかった。おおよその勤務条件や期間などは友人の雨宮伝いに聞いてはいるが、やはり雇用先から直接に聞く必要がある。なによりもう、その雨宮の話が一切信用できない。
僕はなんとなくのぼるエレベーターの階数表示を眺めていた。地下十二階から地上十階まで上がるのには少し時間がかかる。もうすぐ到着しそうだという頃合いで、英さんがため息をつき言った。
「まったく須磨の奴は本当に。あいつに伝えるとひと手間かかる。一応言っておくけれど、僕は書庫全体の統括補助を任されてる。勤務や契約に関することは僕に直接言ってくれても構わないよ、須磨が信用できなければだけど」
「ははは、……わかりました」
苦笑したとき、エレベーターが止まった。地上十階は高級ホテルのような佇まいだった。
赤いモヘアのカーペットが敷かれた短い廊下があり、その先は行き止まりになっている。
廊下のつきあたりには重々しい木の扉がひとつあるのみだ。
エレベーターを降りると、その扉まで廊下は直通で他には何もない。ひょっとするとこのフロアにはその部屋しかないのかもしれない、そう思わせる重々しい雰囲気が漂っている。
英さんはそのドアまで早足で歩くと、しかめっ面で振り返ってきた。
「今からこの部屋で契約に関する手続きをしてもらう。中に入ったらくれぐれも、行儀良く挨拶するんだぞ」
「え?」
(誰に)
聞く暇もなく英さんは扉を開けてしまった。
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