Afterwordは君の手で

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「失礼します。英です、ブッカームの新入りを連れてきました」 「ああ。遅かったな」  中へ入ると目の前にだだっ広い空間があった。  床一面に敷かれたレッドカーペットの上にちょこんと置かれた応接セット、その奥にある壁はすべてガラス張りの窓になっている。  茜空と町の景色がよく見渡せる手前に、執務机に頬杖をつくひとりの女性が座っていた。  シャープな顔立ちの彼女は三十代くらいだろうか、小首を傾げるとさらりと短髪が揺れた。にやつく猫目がこちらをとらえる。 「君が小雀くんだね? どうぞ、そこに腰掛けてくれたまえ」  彼女が「そこ」と示したのは応接セットの椅子である。戸惑いつつも言われた通りに座ると、英さんが数枚の書類を目の前のテーブルに置いた。座る彼女はゆったりとした微笑みを浮かべつつ立ち上がり歩いてくる。 「ご苦労だったな。英、あとは私がやろう」 「はぁ……それでは」  英さんはものすごく何か言いたげな顔で僕をちらと見て、けれど何も言わずに部屋を静かに出て行った。 「さて、と。小雀くん、まずは君に詫びなければならんな」  僕の向かいに足を組んで座る彼女を、まじまじと僕は見てしまった。 「お詫び、ですか?」 「そうだ。この度は愚弟が迷惑をかけたようで申し訳ない。けれど君がこの仕事を引き受けてくれてとても助かったよ。人手不足で困っていたんだ」 「えっと――?」 「申し遅れたが、私は雨宮姫(ひめ)という。この図書館の統括の仕事をしている」 「雨宮、さん」 (どこかで聞いたな) 「ああ。君にこの仕事を紹介した雨宮なつめは私の弟だ」 「えっ? あ、そうなんですか!」  彼女はくすりと微笑んだ。笑うと猫目が三日月型になり、ニヤリとした顔がどこか友人に似ているような気もする。 「実は愚弟の根性を叩き直してやろうと思ってな。ちょうど人手の足りないハードな部署があったもので、ひと夏そこへ入れてやろうと思っていた。甘言で唆したが、あ奴め感づきおってな。海外へ逃亡した」 「はあ」  その「ハードな部署」へ代わりに入ったのは僕だ。なんともいえずに黙っていると彼女は取り繕うように笑う。 「まぁ、ハードとは言ったが書庫の仕事は魅力もあるぞ。なによりブッカームの職につきたいと願う者は多い。書庫で働いている人間も、みな元からブッカーム志望で来た者たちばかりだ」 「そうなんですか?」  それは意外なことだった。あれだけ走り回るほど忙しい部署へわざわざ希望してやってくる人がさほど多いなんて不思議だ。 「とはいえ、一年で一番いそがしいこの夏の時期に新人をいれることはまずないんだがな。てんてこまいな中に入れて、研修もろくすっぽ出来ないのは可哀想だろう?」 (それって今の僕の状態じゃないか?)  話を聞けば聞くほど微妙な心持ちになっていくこちらを察したのか、彼女は困ったような顔になる。 「だから君が『もう辞めたい』というのなら、それも仕方ない。愚弟が君になんと言ってこの仕事を勧めたのか知らないが、きっと『おいしいバイトがある』とかなんとか言ったんじゃないのかい? 『クーラーつきの暇な座り仕事、それが図書館』とか何とか」 「あっ、そ、そうです! どうしてそれを」 「私がそう言って奴を騙そうとしたからだ」  友人から聞いたのはどうやら彼女の言葉の引用だったらしい。というか、この人も嘘で丸めこんで弟を働かせようとしていたのか。  職権濫用もいいところではないかと思ったが、賢明にも黙っておく。 「だからそう、君が辞めたいというのなら断ることはできない。けれどこちらとしても、この忙しい時期にせっかく来てくれた君にはもう少し働いてもらいたい。そこでだ、相談なんだが」  前屈みになった彼女は企み顔だ。友人の雨宮にこうしてみるとそっくりで、ふたりは兄弟なんだなと改めて呑気なことを考えてしまう。 「小雀くん。もし君がこのままブッカームとして働いてくれるなら、君の時給を三倍に増やそう。むろん期間は最初に告げた二ヶ月のみでいい。夏休みの間だけブッカームの仕事をしてもらう、そういう条件でどうだろうか?」 「三倍!? ということは……」 「時給二千四百円になる。安心してくれ、上乗せ分は私のポケットマネーから足しておく。公費からは出さないよ。愚弟の友人へのお小遣いだと考えてくれ。これは無理な仕事をお願いしている私からの気持ちでもあるんだ」  その法外な時給には内心かなりそそられた。時給二千四百円、これは大きい。  今日び二ヶ月だけの短期でそれだけ高時給の仕事はなかなか見つからない。こちらの内心を知ってか知らずか、彼女は「ただし」と笑う。 「その二ヶ月の間、君にはちょっとした別の仕事も頼みたい。なに、たいしたことではないさ。これだけ上乗せした時給からすればお遊びみたいなもんだ。いや本当に、そんなにたいしたことじゃないんだが、少し書庫で調べてきてもらいたいことがあるんだ。なにしろ私が直々に降りて調べるわけにもいかないし、書庫には限られた人間しか出入りできないからな。気になっているけど調べにくい、私の求める情報を代わりに取ってきてもらいたい」  長々と言い訳でもするように告げられると嫌な予感がしてくる。僕とてそう何度も甘言にのせられるほどお人好しではない。高い時給につられて言われるがままに頷けば、いったい何をさせられるか分かったものではない。  けれど好奇心がむくむくと音をたて育っていくのも感じていた。  「書庫での調査」とは何なのだろう。彼女が「気になっているが調べにくい事」とは何なのだ。すると、彼女は真顔でこんなことを聞いてきた。 「小雀くん、君は幽霊を信じるかい?」  僕は怪訝な顔になっていただろう。 「幽霊ですか。いえ、特には」 「実際に目にしたことは」 「ありませんよ、そんな。何です、まさかひょっとして」  そこまで言って口を閉ざした。彼女はさっき「書庫の調査」をしてほしいと言っていた。そこへ来て幽霊の話。まさかとは思うが、書庫に幽霊が出るとかその手の話か。  彼女は生真面目にこっくり頷く。 「ああ、書庫にな。ブッカームたちの間で幽霊が出ると噂が広まっている。私はそんなものを信じないが、実際に目にしたと主張する者もいるんだ。それがただの噂ならいいが、少し不可解なことも起きているようで困っている」  僕は若干うすら寒くなってきた。あのだだっ広い書庫に「幽霊が出る」と聞くと恐ろしい。なにしろうす暗くて人口密度の低いとても静かな地下深くだ。「出る」と言われれば本当に出そうで気持ち悪い。  雨宮姫は難しい顔で腕組みしている。 「どうにも要領をえなくて申し訳ないが、ブッカームたちが言うには書庫の物が動いたとか幽霊に脅されたとか……おまけに『カップ麺を幽霊が食べる』と言う者まで現れる始末だ。私には誰が何を言っているのか、噂の出所や実際の雰囲気がよくわからん」 「あれだけ広い書庫なら、たしかに幽霊とか出そうではありますよね。けど『幽霊がカップ麺』はちょっと、さすがに眉唾っぽいですが」  「幽霊がカップ麺を食べる」というのはどういう状況なのだろう。そもそも書庫に幽霊が出るという噂ならともかく、どうしてそんなへんに具体的な話が広がったのか。  すると彼女は口をへの字にする。 「書庫の奥にカップ麺のゴミが放置されていたらしい。誰かはわからないが、ブッカームが捨てたゴミに違いないさ。――書庫内は原則・飲食禁止だ。誰かがそこで飲食したという証拠があるのに、幽霊のせいにされてはかなわんからな……話がそれてしまったな。私が君にお願いしたいのは、ブッカームたちの間に広がるその幽霊の噂を調べてほしいということなんだ。誰がどのように広めているのか、具体的には『ヘブン』『スカッシュ』『ヘル』のどの部署で広まっているのか。働きながらさりげなく聞いてきてほしい。私は幽霊がいるとは全く考えないが、働きやすい職場環境を整えるのも仕事のうちだとは思っている。良くない噂で仕事に影響が出るのは困るからね。事と次第によっては、悪い噂の芽をつまねばならない」 「えっと、お話はよくわかりました。でも、聞いているとなんだか心配しすぎのようにも思えるんですけど」  幽霊が出るなんて「小学校に花子さんが出る」という子供の噂と変わらない。そんなことを信じる人がいるとも思えないし、たとえ信じて怖い思いをしたとしても仕事の支障になるだろうか。 「私もそう思う。心配しすぎじゃないかという君の意見も良く分かる。繰り返しになるが、私は幽霊なんてものを微塵も信じていないからな。カップ麺の話程度なら放置しておいてよかったんだ。けれど実際に仕事に影響が出ていてな――このひと月で五人だ」 「え?」 「書庫での怪我人だよ。うち数名は『幽霊に襲われた』と言っている。多忙のせいで転びぶつかっただけとは思うが、そこまで幽霊話に左右されている状況はよくないだろう?」  真顔で言う彼女に、僕は「そんなまさか」と浮かべようとした笑いを引っ込めた。  幽霊に襲われた人がいる――それもひと月に五人もだ。  実際にはただの事故で幽霊とは全く関係ないのかもしれないが、少なくとも怪我をした人たちの数名は『幽霊に襲われた』と言ったらしい。そう聞くと本当に書庫に幽霊がいるかもしれないと思えてくる。彼女はテーブルの上に置かれた雇用契約書をちらりと眺めている。 「小雀くん、どうだろう。君に調べてきてもらいたいのは幽霊が本当にいるかじゃない、ただ噂の出所を探ってきてもらいたいだけなんだ。誰が何を言っているのか、流言の出所を私に伝えてくれるだけでいい。それも出来る範囲で、ブッカームたちと世間話したことを教えてくれるだけでいいんだよ。特になにもなければ、それはそれで仕方ないとは思っている。成果が上がらなくても君を責めたりしないよ、だからその程度の話なんだ。あくまでここでの君の仕事はブッカームなんだから」 「はぁ……特に何も分からなくてもいいんですか?」 「努力してほしいが、実在しない物を調べてきてもらうんだから。まぁ、噂話のひとつやふたつ仕入れるくらいは簡単なことだろう。どうかな、やってくれるかい?」  彼女が差し出してきた契約書を見てみる。  テーブルの上に置かれた紙には雇用期間や時間の他にはっきりと書かれてある。時給二千四百円。 (二か月みっちり働いたとして、おいしいよなぁ。けど)  書庫の仕事はもの凄くハードそうだ。ブッカームとして働くとなれば、この二か月を僕は一日中走り回ることになる。加えてたった今聞いたばかりの「幽霊」の話だ。  僕はこのとき断っても良かったと思う。  友人に半ば騙されるように紹介された仕事だ、望んでいた楽な座り仕事とはかけ離れた肉体労働だし、今から別のバイトを探すという選択肢だってあったろう。けれど僕は断らなかった。 「やります。ぜひ、働かせてください」  理由は簡単、幽霊の話だ。本物の幽霊が出るかもしれないと聞いて俄然、仕事に興味を惹かれた。幽霊と聞き逃げる人もいるかもしれないが、僕はその真逆だったのだ。 (怖いけど面白そうだよな)  完璧な怖いものみたさである。僕は幽霊を見たことがない。自分には霊感がないと思っているし、そのような怪奇現象に出くわしたこともない。だからだろう、幽霊が出ると聞いてわくわくしてしまったのだ。  幽霊なんてまず絶対にいないと思う。だけど「幽霊が出ると噂の職場」でひと夏働いたなんて、友達にこれ以上なく自慢できる話じゃないか。  そんな風にそのときは軽い気持ちで考えていた。 「そうか、やってくれるか! 頼もしいな、愚弟とは大違いだ。それでは私の方から、君がすべてのフロアの人間と話せるように英に手配させておくよ。君はいま『スカッシュ』に配属されているが、明日には……そうだな、『ヘル』に入ってもらうことにしよう。幽霊に襲われたと言っている者の多くが『ヘル』で作業をしていたんだ。さっそく明日から、先ほどの件をブッカームたちにさりげなく聞いてみてほしい」 「分かりました」  本当に幽霊がいるなんて考えていなかったし、自分が書庫に入って働くのがどういうことかも想像していなかった。たった二か月だけの仕事だ、それも高時給の――そう考え安請負してしまったのは、今思えば痛恨のミスだった。
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