33人が本棚に入れています
本棚に追加
こうして晴れて書庫、地下奥深くのブッカームとして働くことになった翌日の朝、僕を待ち受けていたのはスカッシュの主任・須磨の悲愴な顔だった。
「おはよう、小雀くん。残念なお知らせだ」
朝一番に書庫へ降りてみれば須磨はこの世の終わりのような顔をしている。
昨日はあんなに快活だったのに、よほど悪いことが起きたのだろうか。
「な、なんですか。おはようございます」
「うん。昨晩、スカッシュの地図を家で覚えてきてもらうようにお願いしたと思うが、申し訳ない。今日は別の場所で働いてもらうことになったんだ。すまない!」
僕はぎくりとした。
そういえば昨日、須磨からスカッシュのフロア地図を手渡されて「明日までに憶えてくるように」と言われていたが、うっかりと失念していた。この書庫を出てから後にあったことの方が強烈で、そちらへ気を取られてしまっていたのだ。
「書庫に幽霊が出る」という噂のこと、そしてその出所を僕に調査してほしいという依頼など、考えるべきことはたくさんあって、肝心の「スカッシュの地図を明日までに覚えてくる」というひと言を欠片も覚えていなかった。須磨は僕が身を竦めたのをどう受け取ったのか、申し訳なさそうにしている。
「本当にすまないと思っている。ひと晩であれだけの地図を丸暗記するのは大変だったろう。普通なら一週間はかかるところを、君にはたった半日足らずで覚えてきてもらったわけだからな。徹夜でさぞ辛いこととは思うが、安心してくれ。いずれまたスカッシュで働く日に、君のその努力は報われるだろう」
「あー、えっと大丈夫です。あのそれで今日、僕が働く場所って」
いたたまれなくなり遮ると、須磨は重々しく頷く。
「ああ。君には『ヘル』で働いてもらいたい。階層的にはここより下のフロアになる。仕事の忙しさはスカッシュより幾分マシだが、なにぶん『ヘル』の地図をまだ君には渡してすらしていないからな……事情は先方にも伝えてあるが、大変な思いをさせてしまうだろう。本当にすまない」
「い、いえ! 僕はいいんです。なんとか頑張りますから謝らないでください!」
勢いよく頭を下げた須磨に慌てて両手を振った。須磨は僕が昨日と同じ場所で働くものと思っていたようだし、手渡されていた地図には全く目を通していなかったので、謝られる筋合いもない。さらに言えば今日『ヘル』という場所で働くことになったのも、昨日話した彼女、雨宮姫の采配だと分かる。
この書庫の統括責任者である、雨宮姫。
彼女に「幽霊の噂について探ってほしい」と依頼され、そのために色々なフロアの人と話せるように手配すると言われたが、さっそく実行されたようだ。
「あの、今日行く『ヘル』って、どんなところなんですか?」
須磨の後につき乗りこんだエレベーターで、気になって聞いてみた。
はじめて耳にした時から思っていたが、書庫の階層につけられた『ヘブン・スカッシュ・ヘル』という名前の中で、最下層にあるという『ヘル』の名前だけ浮いているような気がする。
部署名に『ヘル』と名づけるなんて、地獄のように忙しいのかもしれない。
すると須磨は降りていくエレベーターの階数表示をぼんやり見て答えた。
「『ヘル』は他の場所に比べれば、まださほど忙しくはないんだ。走り回らなくて良い分、体力的には幾分ましかもしれん」
「そう、ですか」
それは何より。ほっとしたのも束の間、話を続ける須磨の顔はなぜか晴れない。
「ただなぁ。忙しくはないんだが、君にはあの場所はちときついかもしれん。新人の小雀くんが働くにはスカッシュが一番良いと俺も言ってはみたが、聞き入れられなくてな。英の奴がいったい何を考えているのか俺には分からん」
(忙しくはないけれどきつい?)
須磨が言っていることがよくわからない。忙しくないなら走り回る必要もなく、暇じゃないのか。
エレベーターが止まり、降りた先は地下二十階だった。
『ヘル』は地下・十六階から二十三階までの最下層部で、こうして改めて階数表示を見るといま自分がいる地底の深さに驚いてしまう。地下二十階って。
(ここで地震とか来たらやばそうだよな)
この深さでエレベーターが止まったら一貫の終わりだ。万が一にも停電になったら、一体どうやって地上まで戻るのだろう。おそらく階段で上がるしかないだろうけど、火事場の高層ビルから避難するのと似た危険性を感じてしまう。
ひとり妄想にふけり恐々としていると、男性がこちらへ歩いてきた。
須磨を見てふやけた笑みを浮かべる彼は、皺のよる白衣をだらりと着崩して余った袖を垂らしている。寝癖であちこち髪をはねさせ、炭酸の気が抜けたような声で笑った。ふにゃり、そんな効果音がつきそうだ。
「待ってたよ~、須磨。その子が噂の新人くん?」
「ああ、小雀くんだ。昨日入ったばかりで、まだ水揚げの手順を覚えたところなんだが……」
「ようこそ小雀くん~。僕は甲把(かっぱ)だよ。『ヘル』の主任なんだ。よろしくぅ」
「カッパ、さん?」
「あぁぁ、キュウリとお皿の河童じゃないよ。甲賀の甲に把握の把でカッパって読むんだぁ」
差し出された手をおずおず握ると、甲把は嬉しそうに握った手をぶんぶんと振ってくる。『ヘル』の主任だという彼の出で立ちには驚きを隠せない。
大学生の自分より歳上で、三十代くらいだろうか。服装はだらしなく顔や口調も緩みきっている。
(なんていうか、大丈夫なのかな)
須磨に感じたのと似たような不安を甲把にも感じてしまう。「主任」という肩書きがあるわりにどことなく頼りなさげに見えるのだ。すると須磨が「うむ!」と頷いた。
「では甲把、俺は戻るから後は頼んだぞ。小雀くん、大丈夫だ。君ならきっとできる!」
「はぁ」
須磨の爽やかな笑みとサムズアップを見ると不安が増す。エレベーターで上がっていく須磨を見送って、甲把はへらつく笑みで言った。
「じゃぁ、みんなに紹介しちゃうよ。みんな~! ってあれ、ひとりしかいない」
地下二十階のつくりはスカッシュと同じになっていた。
まず目の前に机、その上にプリンターが五台並べられている。
内装や備品は双子のように同じなのに、スカッシュとは大きく異なる点がいくつかあった。
まず目の前のプリンター。そこから紙が一枚も出ていない。
昨日訪れたスカッシュでは途切れなかった水揚げ依頼の紙が、ここではひとつも見当たらないのだ。地下二十階はとても静かだった。図書館の書庫にふさわしい静謐がここにはある。
さらにもうひとつの違いはブッカームの数の少なさだ。スカッシュでは常にプリンターの横に五人以上誰かがいたが、このフロアでは僕と甲把、それにいま座り本を読んでいる青年の姿しか見当たらない。僕を除けば実質ふたりで、しかも内ひとりはまったりと読書している。
(なんだか凄く暇そうだけど。昨日のスカッシュとは大違いだ)
ギャップに驚いていると、甲把が頬を膨らませ座っている青年に言った。
「物集(もずめ)くん、みんなは?」
「……十朱(とあけ)は、上に漫画取りに行った。兎(うさぎ)は、どこかで本の発掘してる」
「もう、うちのフロアで働いてるの相変わらず兎ちゃんだけだねぇ」
「……いつものことだろ」
ぼそぼそと呟く青年はするとようやく顔を上げた。
物集と呼ばれた彼は色白でやたらと髪が長い。鼻がしらまで簾(すだれ)のように垂れた前髪の間からぎょろつく目が覗いている。甲把がへらりと言った。
「えっとぉ、今日うちで働く新人の小雀くんだよ。小雀くん、こっち物集くんねぇ」
頭を下げた僕を見て物集は不思議そうにしている。
「……こいつは、ずっとここにいるのか?」
「ううん。それが僕、よく分からないんだよねぇ。とりあえず今日はここで預かるって英ちゃんから聞いてるんだけど」
(英ちゃん?)
英と言えば昨日僕も会った、あの高飛車な態度の青年のことだろうが、ちゃん付けで呼べるタイプの人間ではなかった気がする。
しばらくの間ふたりは今日の段取りを話し合っていたが、僕にはわからない何かに合意して甲把が笑いかけてくる。
「物集くんがヘルを案内してくれるから、一日彼についてみてくれるかな? たぶんさほどやることはないとは思うけど」
「あ、はい。よろしくお願いします」
物集が無言で立ち上がったところで、思い出したように甲把が机上のファイルを手渡してくる。
「一応これがここのフロア地図ね。今日はこれを見ながら地図を覚えてみて。それから物集くん、分かってると思うけど」
「……ああ。一時と四時には戻ってくる」
「頼んだよ~」
へらへら手を振る甲把に見送られ、静かに立ち上がった物集がひとりで歩いていくので慌てて後を追った。
「あっ、あの! 一時と四時には何かあるんですか?」
物集は振り返らずにぼそぼそ呟いた。
「……ここでは、ほとんど仕事はない。唯一、忙しくなるのがその時間だ」
「一時と四時に?」
「……ああ。常連が来る」
(常連?)
物集の声は小さく聞き取りづらい。あまり会話を好むタイプでもなさそうだし、ひょっとすると読書の邪魔をされ怒っているのかもしれない。静かにしておこうと思ったら、意外にも物集のほうから話しかけてきた。
「……お前、どうしてここへ来た」
「え? あ、友人に勧められて。夏休みの間だけ、バイトですけど」
「……望んでブッカームになったのか?」
「いや、それは偶然というか、微妙なんですけど」
すだれのような前髪の隙間からじぃっと窺ってくる鋭い視線を感じた。表情がよくみえない分、凝視されるとうすら寒いものをおぼえてしまう。
「……気をつけた方がいい。ヘルで働くなら特に」
「えっ、何に?」
物集は立ち止まる。静かな口調に重々しさがのせられている。
「……ここには本好きの幽霊がいるから。本に愛情のない奴は容赦なく呪われるぞ」
幽霊。
それこそ僕が求めていた情報だった。けれど幽霊が「本好きだ」なんて初耳だ。
「……お前が来る前、ここで働いていたふたりがその幽霊に襲われた。あいつら、本を粗雑に扱ったから呪われたんだ」
「物集さん、その幽霊を見たことがあるんですか?」
下のフロアへと移動するために階段を降りていた物集は、歩く速度を変えずに言った。
「……俺はない。けれど気配はずっと感じてる」
「気配、ですか」
なんとも嫌な言葉だった。
姿は見えねど気配はある。いよいよ本当に出そうな雰囲気ではないか。
「……このあたりに何かいるって分かる。そいつは本を、俺たちから守ろうとしてるんだ。この書庫に棲みついてるんだ」
「えっとぉ」
(本を守ろうとしている?)
どいうことなのだろう。
すると降りた先のフロアを見回して、物集は鼻をひくつかせた。
「……いるぞ、いまはこのフロアだ」
「いるって、幽霊が!? 物集さん霊感あるんですか?」
「……ない。姿は見えない。なんとなくわかるだけだ」
ぼそぼそと呟きまた静かに歩き出す背を見て思った。うさんくさい。
一瞬でも本当に幽霊がいるかと期待してしまったのが馬鹿らしくなってくる。
雨宮姫からは幽霊の存在を確かめてほしいと言われたわけではない、「幽霊の噂をするブッカームについて調べてきてほしい」と言われただけだ。
物集は「書庫に幽霊がいる」と信じこんでいるようだし、彼がこの噂の元凶だということも十分に考えられる。
(もしそうなら、雨宮姫さんにこのことを伝えて。さっそく彼女の期待に応えられそうだ)
まだ物集だけが「幽霊の噂」を広める人物だとは言いきれないが、ひとまず雨宮姫に報告できるだけの情報は得た。
(幽霊なんて存在しないんだから)
僕の仕事はあくまで「幽霊の噂」について調べること、幽霊本体を探すことではない。少し気落ちしそんなことを考えてしまったのは、期待を砕かれる前の心の準備だったかもしれない。実のところ、僕はかなり幽霊に会ってみたかった。けれど現実はいつだってそういった希望を完璧に否定してくれるものである。
――幽霊なんて存在しないんだ。
そう思って落胆していた。
しかしこの数時間後、幸か不幸か僕の認識は改められることになる。
最初のコメントを投稿しよう!