その四 ふるさとにて

1/1
36人が本棚に入れています
本棚に追加
/27ページ

その四 ふるさとにて

 電車の振動や音は独特の周波を持つ。一本目の国鉄は客数が多い。けれど乗り継いで、故郷に近づくにつれてお客はまばらになった。  過ぎてゆく窓の景色は馴染みの深いものに移り、今の季節独特の、勢いづいた緑の輝きや水の張られた田んぼのさざなみを眺めているうちに、うとうと睡魔に襲われた。  心地よい朝寝の中で、二人用座席の隣に、ふっさりと誰かが座っているのを感じた。  それは小柄な姿で、ほっそりとしていて、身軽で柔らかい感じがした。ちょっと汗ばんだ半袖の腕は痛々しいほど細い。多分これは子供だ、男の子だろうか女の子だろうかと思った。  でででん、でででん、という揺れの中で、小さく高い子供の声で世にも懐かしい鼻歌を聞いた。側にいるよ、ここにいるよ――そんな言葉が声ではなく思考として頭の中に届いた。その時、こんもりとした暗い庭木の茂みや、側を流れる澄んだ用水、その湿った空気の中を飛び交う蛍の光などが、ひとまとまりの風景となって蘇った。一瞬わたしは、自分が今いるのが電車の中ではなくて、懐かしい記憶の中、縁側に腰掛けて素足をふらつかせているような錯覚を覚えた。    けれど一瞬後、潰れたような声の車掌のアナウンスで、次の駅の名前が聞こえ、わたしは目覚めてしまった。  はっと横を見たけれど、そこには誰もいなかった。なんだ夢か、ただの夢か、と思ったけれど、青臭い庭の匂いが鼻の奥につんとこびりついている。   **  よたよたと実家に到着すると、居間では母が、お茶を飲みながらテレビを見ていた。  定年間近の父は会社に行っていてうちにはおらず、二階からはニートの妹がたてる音が時々響いた。  庭の前には業者のトラックが横付けされていて、おじさんとおばさんのペアが、寡黙に伐採作業を続けている。じゃああああ、と、おじさんが電動のこぎりを使い、椿の木がばさばさと倒れるのを見ながら玄関に入った。    「庭の木全部切るの」  居間にあがるなり、わたしは言った。母は、そうよ、だって世話できないんだもん、と言い、わたしの持つスポーツバッグを変な顔で見た。    「えらい荷物だね」  と、母は言った。「あんた何日こっちにいるつもりなの。仕事すぐに戻るんでしょ」  一瞬わたしはぎくっとしたが、単に窮屈な礼服を脱いで普段着に着替えたいからだよ、と答えておくにとどめた。そんな会話を交わしている間も、二階からどたん、どたんという重たそうな音は響いていた。  「お通夜は夕方からなのに、あんた今からそんな恰好なの」  母は言った。    「だって、バッグに詰めたらくちゃくちゃになるんだもん。ここで着替えさせてもらっていい。時間が近づいたらまた着替えるから」  と、わたしは言った。いいよ、と、母は言った。「あんた考えたね。持ち運ぶくらいなら、確かに着てくるほうがいいわ」    ジャジャーッ。電動のこぎりの音がうちの中にまで響いてくる。  母はワイドショーを眺めつづけている。その背後でわたしは喪服を脱ぎ、かもいにかかっている古いエモンカケに引っ掛けると、バッグからジーパンとシャツを出してつけた。その時、はいてきた黒いストッキングが見事に伝線していることに気づいた。  蛇の抜け殻のように破れたストッキングを畳みの上に放ったら、母がまたこちらを振り向いた。  「ストッキング買いに行って来る。そこのコンビニまで」  と、わたしが言うと、その近所のコンビニは去年潰れてなくなったじゃないの、と、母は答えた。わたしは絶句した。  古い田舎町。ストッキングを買う店といえば、すぐに思いつくのがコンビニだった。  スーパーならあるけれど、あそこには食料品以外は洗剤とゴミ袋くらいしか売られていない。  母が気の毒そうに、町の方に行ったらお店があるじゃないと助け舟を出した。  町。母の言う「町」とは、県庁所在地のことだ。車で十分くらいで「町」に行けるのだが、わたしには車がなかった。  「はなの車借りていけば。こないだガソリン入れたみたいだから」  と、母はどうでも良さそうに言った。はなとは妹の名前である。わたしがせつで妹がはな。両親は平仮名二文字が好きなのかもしれない。  わたしは階段の下に来ると、上に向って、「車借りるよ」と怒鳴った。一瞬、しいんと妙な沈黙が漂ったが、やがて不愛想な低い声で「いいよー」と返って来た。  妹は昨年くらいからニートで、ニートになってからろくに喋っていない。けれど、二階から漂って来る雰囲気は、あの、我儘で、何を考えているか分からない妹のままだった。今聞こえて来た声も、「いいよー」の語尾が悪戯っぽく下がっていたので、そしてそれは妹が変なギャグをかます時の癖でもあるので、わたしはニヤッとしてしまった。    (姉ちゃんも無職になっちゃったんだぜ)  本当は二階に走って行って、はなにそう言ってやりたかった。  けれどそうしないまま、わたしは居間に戻り、車使っていいって言われた、と母に言った。台所の壁に家の鍵類が掛かっている場所があり、妹の車のキーもそこにぶら下がっている。わたしはその、ご当地キティちゃんがぶらさがったキーを取った。  「ゆうちゃんさあ、白血病だったんだって」  こちらに背中を向けたまま、母は言った。  キーをくるくる回しながら外出しようとしていたわたしは足を止めた。白血病。  「あそこんち、ゆうき君のお母さんとお父さんだけだったよね」  とわたしは言った。母が、ふるふると首を振った。  「違うのよ。お父さんとはもう離婚してる。お母さんは五年前にブラジル人と結婚して、ほとんどゆうちゃんとは連絡していないみたい」  ゆうちゃんが成人したのを機会に新しい人生に踏み出したみたいよ。母は淡々と言った。  一瞬わたしは押し黙った。母はもっと込み入った事情を知っていそうだし、狭い町はなんて怖いんだろうと思った。ブラジル人とどういう経緯で知り合ったのか気になったけれど、ゆうき君のお母さんがとても美人だったことや、どこか地に足のついていない、不思議な雰囲気を思い出すと、なんでもあり得る気がした。  「お店で知り合ったみたい。夜のお店」  と、母は言った。別にそのことを非難しているわけでもなく、単なる事実として、母は言った。  ふうん、と、わたしは流して置いた。    「ゆうちゃんの喪主はお嫁さんだよ」  と、母が言い、そのときばかりはわたしは「えーっ」と叫んでしまった。  「ゆうちゃん高校卒業後すぐに結婚したの」  と、母はしれっと言い、わたしは何故か衝撃を受けていた。  「どんなひとなのー」  と、いうと、母は「今日会えるでしょ」と答えた。要するに、母もゆうき君の奥さんのことまでは知らないらしかった。  がーん、とショックを受けながら、とぼとぼとわたしは庭に出た。妹のパールピンクの軽四に乗りながら、幼い頃のゆうき君を思った。  そうかそりゃそうか、ゆうき君も25歳だもん、恋もすれば結婚もするよな、と思った。そして、昨日から何故か自分の側にゆうき君の霊が来てくれているように感じていることを、とても恥ずかしく顧みた。  (四十九日が過ぎるまで側にいるとしたら、当然奥さんだろう)  とほほ、と、訳も分からない落ち込み方をした。  おなかはぎゅうっと痛みを訴え、ウッ、来たか、と、わたしは前屈姿勢になった。財布と携帯しか持っていない。生理用品はスポーツバッグの中だ。  車から降りればすぐに家に入ることができるのに、わたしはそれをしたくなかった。多分今、わたしは失恋したみたいな悲壮な顔をしているのに違いなかった。  (ストッキングを買うついでにナプキンも買おう)  最寄りのコンビニ。なんでもいい、目についた所で買い物を済ませちゃおう。そのついでに、久々に町を回ってみよう。  エンジンをかけた時、また庭木がばさばさと音を立て、視界の横でゆっくりと倒れた。  庭木が一本また一本と切り倒されてゆくにつれて、見通しが良くなっていく。  戻ってくる頃には庭木はすっかり綺麗になくなっているだろうか。そう思った。
/27ページ

最初のコメントを投稿しよう!