その三 通夜に向かう、遠足に行くかのように

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その三 通夜に向かう、遠足に行くかのように

 「あんたレンタカーとか止めてね、電車で帰って来てよ」  職安からアパートに戻った後、明日のお通夜の時間や場所などを確認するために電話をした時に、母からいきなりそんなことを言われた。実家にはコンクリ打ちっぱなしの駐車スペースが車一台分あるが、他の車は通路に面した庭に適当に停めることができた。ところが明日という日に限って、庭木の伐採の依頼を業者にかけてしまったという。  「だって、ゆうちゃんがこんなことになるなんて判らなかったんだもの」  言い訳のように母は言った。だから車できてもあんたの停めるスペース今はないから、とりあえず電車で帰ってきて、と言い放って、母は電話を切った。  この街から実家のある田舎に行くには、電車を一回乗り換えなくてはいけない上に、本数の少ない古びた地方鉄道を利用しなくてはならなかった。幸い、実家の側には無人駅があるので徒歩で何とかなるのだけど、それにしても何て面倒くさいことになったんだろうと、通夜に行く前からグッタリしてしまった。    本当に、なんというタイミングでゆうき君は逝ったのだろう。  不本意な辞め方をした仕事、これからどう生きてゆけばいいのか何も見えない状況。そして、実家は庭の庭木の伐採依頼を通夜の日にかけてしまっていた。  これ以上ないような最悪な時に、ゆうき君はこの世を去った。  電車で帰ることになり、一瞬わたしは、足代のことを考えた。僅かなお金だけど、職のないわたしにとって、実家とアパートの往復でかかるお金は貴重なものだ。  けれど、すぐに、レンタカーだって結構する、そっちの方がキツイ、と思い直した。    電車を使うとなると、荷物がかさむ。  しょうがないので、礼服は着てゆくことにした。普段着やスニーカーをスポーツバッグに入れてゆけばよい。  買ったばかりの礼服は安衣料品店のビニール袋に入っており、押し入れには滅多に使う事のない黒いパンプスがしまわれているはずだった。引き出しのどこかに真珠のネックレスがある。  そういった品々を発掘し、明日に備えることで、その日の残りを費やすことにした。  必要な品物を引っ張り出した時、時計を見ると意外な程時間が経っていた。もはや風呂に入って寝るだけしかできそうになかった。  ユニットバスにお湯をはり、その勢いの良い水音を居間で聞きながら、ぼんやりとわたしは今日一日がもう終わることを思った。  衝動的に仕事を辞めたのが昨日。今日起きてからゆうき君の訃報を聞き、そのまま安衣料品店に行って礼服を調達、それから会社に行って――本当に気が狂いそうになる程、嫌な事だった。けれど、なんとか通過することができた。物凄く傷つけられて、泣いてしまったけれども――職安に行って手続きをして、戻って来た。  盛りだくさんの一日だったけれど、一つ一つの過程がくっきりとしていて、確実にハードルを越えた気がした。何のハードルって、調子の悪い現実から脱出するためのハードル。  (今日が終わる時、わたしはきっと立ち直れない位ぼろぼろになっていると思っていたけれど、案外大丈夫だった)  バスに湯がたまり、蛇口を締めながら、わたしは考えた。  現実の理不尽さ、心も体もだるくて、とどめを刺された。あの鬱屈が、どこかのポイントでいきなり切り替わった。    職安の廊下で惨めに涙を溜めていたあの時、ふっと通り過ぎたすずしい風と、愛らしい笑顔の記憶。それを感じた瞬間から、わたしの気持ちは変化した。  なにかが作用して、わたしは救われた。  (ゆうき君が側にいるのだろうか)  その想像は、決して悪いものではなかった。 **  朝早くに起きて礼服を着て化粧も整えて、真珠の首飾りと黒い靴を着けて、わたしは駅に向かった。  アパートから最寄りの駅まで歩いて数分の距離だった。無人駅ではあったけれど、ここは実家のある田舎よりは都会なので、早朝でもそれなりに本数があった。  青空の下に剥き出しになったホームには、出勤のサラリーマンや朝の部活に向かう感じの女子高生たちが並んで立っていた。みんな、スマホを使っていたり、煙草を吸いながら新聞を見ていたり、自分の生活の壁の中にしっかりと守られていた。  同じホームに立ち、同じ電車に乗って移動するというのに、それぞれの現実はずいぶん違うのだと、喪服を纏ったわたしは思った。  つい最近、職を失ったばかりだから余計にそう感じるのかもしれなかった。  会社に行く人。有意義な学校生活を送る人。その中に混じり、生理前症候群で辛い体を引きずりながら、無職のわたしは通夜に行く。  喪服なのに派手な色のスポーツバッグをぞんざいに肩から下げていて、わたしはきっと、おかしい見た目なのだろう。けれど皆は忙しすぎて――というより、自分の現実に乗ってゆくのに夢中で――わたしのことなんか、誰も気に留めないのだった。  やがて踏切の音が響き、電車がホームに滑り込んで来る。  久々に故郷に戻る、しかもこんなおかしなタイミングで。電車で田舎に帰るなんて、昔の歌詞にでも出てきそうだな、なんて、その時わたしは、遠足にでも行くような気持すら抱いていたのだった。
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