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その五 たなばた堂
アパートのある都会からこの田舎に向かう便の本数は多くはない。その中でも待ち時間のストレスがない便を選ぶと、早朝か夕方遅めの便のどちらかになる。
お通夜の時間に間に合わせるためには、その異様に早い時間帯の電車を選ばなくてはならなかった。実家にたどり着いてしばらく時間を持て余すことになるのは分かっていたが、たまたまストッキングが破れていたのは逆に、妹の車を借りて町にまでゆき、ぶらぶらする良い口実になったと思う。
ロンTとジーンズ、その上にパーカーを羽織ったわたしは、とてもお通夜に行く人のようには見えないだろう。
ちょっと見ない間に恐ろしいほど廃れた田舎町を通り抜け、国道に出てしまうと、あっさりと町に到着した。パチンコホールやゴルフの打ちっぱなしなどの娯楽施設が建ち並んだ向こう側に、もっとこじんまりとした今風のお店が集まる商店街がある。
昔、女子高生だった頃、そのあたりはおしゃれエリアだった。
大きな建物は少しずつ減って行き、やがて件の商店街が見えてきた。交通量はそこそこ多く、決してスムーズなドライブではなかったが、今のわたしには急ぐ理由など一つもなかった。窓を開いて風を受けた時、エンジンをかけて以来、ずうっと空気のように流れていた車中の音楽にようやく気付いた。
(なんだろうかね、これは)
妹はアニメ好きなので、アニメのサントラとか、声優が歌ったCDばかり聴いている印象があるけれど、車中にひっそりと流れている曲はそんなものではなかった。
チイン、と耳の奥を微かに震わせるような音が時折入り、その合間にひんやりとした感触の静かな旋律が流れている。全然知らない曲だったので、信号待ちの間に思わず、ダッシュボードの中のCDを覗いてしまった。一番手前にあるジャケットが、きっとそれだ、と直感した。
リラクゼーションとか、心の闇を拭い去る、とかいう文字がちらついた。見てはならないものを見たような気がして、すぐにダッシュボードを閉めた。
(ほんとに、もう)
運転中、ずっとその不思議な旋律は流れ続けていた。チイン、チイン――宗教の儀式みたいな音だと思った。一体妹は、こんなヘンテコな音楽を聴いて癒されるのだろうか。
やがて商店街の手前にパーキングエリアが見えた。一時間100円、それ以上は十五分ごとに値段が上がる。比較的良心的な価格設定だとは思うが、なにしろ無職なので、車を停めるのにお金をかけるのは辛かった。
(絶対に、一時間以内で買い物と商店街のウインドウショッピングと気分転換をばっちりこなして、十分にモトを取ってやる)
パーキングエリアに入る時、入り口の受付のおじさんが愛想よく顔を出した。車止めたら鍵預けてくださいね、と笑顔で言われた。
**
その商店街の側には川が流れている。そのせいか、空気が全体的に湿っぽくひんやりしていた。
商店街の中は音楽や雑音に満ちているので川の流れの音までは耳に入らないが、駐車場から出て歩道を歩き、「星の商店街」のアーチに入るまで、尽きることなくさらさらという川の音が聞こえていた。
国道に面しているので、車の音も凄まじいけれど、常に川の音が聞こえているので、なにか癒される気がした。
ストッキングと生理用品を、買いに来たのだった。
そのことを、向こうから楽しそうに歩いてくるOL達の姿を見て思い出した。若い女の子たちはサーモンピンクの社服を着て、つかの間の休み時間を謳歌しているようだ。
通り過ぎる時、ふわっと香水が香り、思わず息を詰めた。短いタイトスカートからすらっと足をのばし、人生を楽しんでいるようなOL達。通り過ぎる彼女たちに、一瞬、あの思い出したくもない人――松本さん――の面影が重なった。
「昨日あの店いったじゃないですかあ。次はあのお店、ほら、タイ料理のお店行きましょうよ。まみちゃんも誘って」
職場で堂々と先輩社員たちを巻き込んで、ごはんを食べに行ったり、どこかに遊びに行ったり。松本さんの周囲はいつも華やかで、楽しそうだった。
「あ、これ、こないだ遊びに行ってきたテーマパークのお土産ですー」
課の中でお菓子を配って、ええ、あそこに行ってきたの、どんなんだった、と、注目を一身に集める。
松本さんは入社早々、いきなり目立った。最初は渋い顔をしていたしていたお局たちも、やがて松本さんに丸め込まれた。
仕事をしないで喋りまくる松本さん。仕事を覚える気もない松本さん。けれど、松本さんなら何をしても許される変な雰囲気が漂っていた。
別にいいと思う。そういう存在が会社の中に一人くらいいたって。
ただし、それが自分に迷惑がかからなければ。
その松本さんの教育係を命じられたのがわたしだった。新人が何をどこまでできるようになったのか、毎日レポートにして出さなくてはならないのが、たまらなく苦痛だった。
周囲も、何もできない松本さんが凡ミスをする度に「大場さんから教えてもらったんでしょう」とわたしの名を出した。
松本さんは「えー、教えてもらってなーい」と、無邪気に言い放ち続けた。最初は笑いごとで済んだ。だけど徐々にそれは、重く冷たくなっていった。
「松本さんは覚える気がないんです。教えようとすればするほど、影でわたしの悪口を言っているみたいだし」
係長に相談したけれど、なんら解決にはつながらなかった。ふんふん、そうか、うん君は頑張ってる、大変だよね、うん。聞くだけ聞いて、「俺は話ならいつでも聞くから」と、さらっと立ち上がって逃げて行ってしまう。その数分後、松本さんから食事の誘いを受けてニヤニヤして喜んでいた、係長。
やっだー、みんなで行くんですよ、二人きりとかじゃないしぃ。
変にスキンシップが上手いのも、松本さんの特徴だった。
くるくる軽いパーマをかけた髪の毛と、甘い香水。
定時になったらすぐに帰ってしまうけれど、異様に長っ尻になる日もある。もちろん仕事で残業しているのではなく、ぺちゃくちゃと喋っているのだ。通路のまんなか、棚の前。松本さんが立ち話をするのはいつも、一番邪魔な場所。そこにいたら通れない、ものが取れない。
どいてください、と言ったら、「あーっ、すいませーん」と、大げさに甘い声を出され、通り過ぎた後ろの方で嫌な沈黙が落ちるのを感じる。わたしがその場を去ってから、また会話が盛り上がる。
ずうん。
下腹がうずいた。頭痛も始まった。ああ、近い、と感じる。すぐそこまで来ている。あともうちょっとでこの辛さから抜けられる。
いつもそうだった。生理前症候群は生理が始まってしまえば治る。もうあと少しのところまで、来ている。そのあと少しが、こんなにも辛い。
頭の中は松本さんのことで占められており、ぐるぐると回る黒い思考は息苦しくわたしを追い詰めた。
もう会うことはない、もう終わったこと、わたしはあそこを辞めたじゃないの。
(ううん、終わっていない)
不意に、ひやっとした本音が浮上した。
終わっていない。というより、永久に続く。
だってわたしは、あの女のせいで、会社を辞めることになった。人生が暗礁に乗り上げた。
きゃらきゃらと笑う松本さんの声。こうしている今も、あのオフィスで松本さんは楽しくやっているのだと思うと、恨みと憎悪ではらわたが煮えくり返った。
ぐらぐらと脳内の血管が沸き立ち、同時にわたしの足取りはふらふらとおぼつかなくなった。
どうしよう。辛い。逃げ場がない。これからどうしてゆこう。
昨日、職安で涼しい風を感じて以来、気持ちが切り替わっていたのだけど、すれ違った人の香水のせいで、また暗黒に戻ってしまったようだ。
商店街のアーケードの中に入り、人々の歩く中に混じりつつ、わたしは不安定にさ迷った。ストッキング。生理ナプキン。どこかにドラッグストアがあったはずだ。
けれど、あったはずのドラッグストアはどうしても見当たらず、わたしは立ち止まり、人ごみの中で途方に暮れたのだった。
どこか、休むところ。少しでいい、涙をこぼしてもよさそうな場所。
ぐるぐると回りだす世界の中で、わたしは店の看板を探した。本屋。服屋。家具屋。流行のアイスクリーム。
その色とりどりの看板の中で、不思議と視線が引きつけられたのは、ごく地味な、真っ白地に見えにくい細い金文字で「小道具古本・たなばた堂」と掘られた看板だった。
骨董屋だろうか。
どうしてそれに惹かれたのか、自分でも分からない。休める場所を探しているはずだ、ここじゃない、と思おうとした時、まるで「これでどうだ」と言わんばかりに、看板の下の貼り紙が目に飛び込んできた。
「お茶ご自由にどうぞ」
入ろう。
迷っている余裕はなかった。
体の辛さと心の痛みのために、今にもわたしはその場で号泣してしまいそうだった。
まるで砂漠の旅人がオアシスにたどり着き、必死に水源まで這い寄るかのように、わたしは「たなばた堂」の古めかしいガラス戸を開き、カランカランという、純喫茶のようなベルの音を聞いたのである。
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