プロローグ

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プロローグ

 出口の見えないトンネルを、えんえんと歩いてゆくのが人生だというなら、そんなものにどんな価値があるのかと、わたしは思う。  大場せつ、25歳。昨日会社を辞めた。  散らかった部屋は白昼の光に晒されている。ちゃぶ台には昨晩飲み干したビール缶が転がり、駄菓子の空き袋がだらしなく口を開いていた。  部屋は埃っぽく、スーツとブラウスが散乱していた。ストッキングが蛇の抜け殻みたいに絡まっていた。わたしはタンクトップとショーツ姿だった。その格好で布団に転がり、やけ酒の果てのずぶずぶとした眠りの中に溺れていたのだった。  頭が痛いのは二日酔いのせいだが、体のだるさは別の由来だ。  いつごろからだろう、生理一週間前から心身の不調が見られるようになったのは。苛々として、体もだるく、そればかりか、世の中のあらゆることが自分に不利に働いているように思えてしょうがなかった。全てのことが理不尽で、癇に障った。いわゆる生理前症候群ということは知っていたけれど、それをなんとか管理しようというところまでは、なかなか至らなかった。  ちょうど昨日あたりから、問題のブラック期間に突入しているはずだ、周期の計算が正しければ。  あの苛々は、ちょっとただ事ではなかったと思う。  もし、生理前一週間の不調について、もっと自覚し、何らかの対策を講じていればこんなことにはならなかったのかもしれない。そう思うと、寝起きの起伏のない感情に嫌なさざ波が立つようだった。  大学卒業後、嫌なこともあったけれど良いこともあった、なによりも希望の職種に就けて嬉しかったあの会社を、感情的に辞めた。この事実を飲み込むには、まだ時間がかかりそうだった。  (なんか、漢方とか飲んでおけばよかった)  ぐずぐず後悔が押し寄せてくる。  生理前になると不調になるというのは女子たち共通の悩みだと思っていたので、そこまで深刻には考えていなかった。普段の自分を失うほどつらくて、思わず会社を辞めてしまうことになるなんて、信じられなかった。  昨日の衝動的な言動を思い返すとまるで悪夢のようで、わたしはしばらく立ち直れそうもなかった。気がおかしくなっていたのだ。悪いのは自分で、今から土下座してでも会社に戻った方が良いのではないかと一瞬強く考えた。  (ううん、違う)  けれど、すぐに我の強さがそれを打ち消した。  生理前症候群はきっかけにすぎなかった。年度が替わってからストレスが増したのだ。実際、周囲の面子が少し入れ替わってから、仕事に行くのが辛かった。  くよくよと自分を責める思いは、徐々に別のターゲットに向った。松本さんさえいなければ、というどす黒い憎悪が沸き上がり、その暗い炎はなおさらわたしの頭痛を酷くするようだった。  今年度の新入社員さん。あんな人に振り回されて、ついには会社を辞めることになってしまうなんて、なんてバカバカしいことなんだろう。  それにしても、やるべきことが山積みになっていた。衝動的に辞めて来た割には、事務的なことは踏んできたので、ちゃぶ台の上にはお菓子の空き袋に混じり、必要書類のクリアファイルが乗っている。  まずは、それを書いて会社の事務所に持って行き(嫌だけど)、できるだけ早く職安に行った方が良い。  自己都合で辞めた場合、職安からお金が出るのはずいぶん先になるということは、昨日、引き留めようとしてくれた金田さんから教わったことだ。  「大場さん、辞めることないよ。がんばってきたの、みんな見てるんだから」    事務員の金田さんは、職場でも年が近いので、よく愚痴り合う仲だった。わたしの悩みも聴いてくれた。一生懸命引き留めてくれたと思うけれど、昨日のわたしは目隠しイノシシ状態だった。誰も止められない位突っ走り、そして、とうとう辞めてしまったのだ、会社を。  (あーあ)  だるい体を動かし、カーテンをシャッと開いた。二階の部屋からは空がよく見えた。明るい空には飛行機雲が一筋、道のように走っている。  とりあえず、収入がないのだから、最悪ここを引き払って――どうしよう、実家に帰るしかないか――いきなり悲壮感に満ちた現実が突きつけられてくる。頭がクリアになるにつれて、事態の救いようのなさが見えてきた。  両親の顔が思い浮かんだが、実家には今、ニートの妹がとぐろを巻いている。無理だ、とてもじゃないが自分まで転がり込むことはできない。  けれど、毎月の収入が立たれるという事は、自分の住処を失う危機ということだ。どうしよう、本当にどうしよう。  (せめて、六月のボーナスを待ってから辞めればよかった)  実家のある田舎に帰りたい、けれど帰りづらい、どうしよう、路頭に迷う。それか、なんでもいいからバイトを見つけるか。  悩ましく痛い頭を働かせている時だった。布団の枕元に放置したままの携帯電話が鳴った。 **  まだ、トンネルは続いている。出口は見えない。絶望しかない。  けれど、わたしには確かに、温かな記憶があった。世界は色彩に満ちており、無限が約束されていた。空は澄み渡り、その気になれば飛ぶことだってできそうだった。水平線の向こうには素晴らしい未来が待っていた。  それは幼い頃の幸せな記憶。戻りたい、故郷に帰りたい。  神様がいるとは思わないけれど、物事はふとした拍子で自分でも考えもしなかったような角度から、希望が叶う場合がある。  見えない手に操られているような不思議さがある。まあそういう感慨は、後から思えばこそ、だけど。  渦中にある時は、ただ仰天し、なんでもかんでも悪いことに向っていると感じるだけだ。  その時も、わたしはそうだった。  電話は母からで、仕事を衝動的に辞めた身としては、心臓が縮み上がるようだった。まさか早くも会社を辞めたことが伝わったか、と思ったが、そうではなかった。  「せつ、ゆうちゃんが亡くなった。明日お通夜だよ」  ゆうちゃん。誰だったか、と記憶の網を手繰り寄せなくてはならないほど、わたしは古く懐かしい世界からかけはなれたところに、今、生きていた。  ほら幼馴染、お隣にいたゆうちゃんよ、忘れたの、まさか。  母の言葉で、すごい迫力で、幼い頃の色々なことが蘇った。  ゆうちゃん。  御堂ゆうき君。  お隣に住んでいたけれど、高校が別になって以来、疎遠になっていた男の子。  えくぼのできる丸い顔、色白で細い体。柔らかな印象。    ゆうき君が死んだ。    「あんた、喪服そっちで買ってきなさい。昔のやつ、虫食ってたから」  母はそういうと、電話を切った。  わたしは茫然と立ち尽くしながら、ちゅんちゅんと雀が囀る窓の外を眺めていた。
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