[第一部 大場せつ、長期休養中]その一 ゆうき君の輪郭、大場せつの現状

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[第一部 大場せつ、長期休養中]その一 ゆうき君の輪郭、大場せつの現状

 小さい頃は、キラキラしたものが満ち溢れていた。今みたいに、周期的に落ち込んだり、隠していた自我が出てきたりすることもない。いつもフラットな気持ちで、泣きたい時に泣き、怒りたい時に怒り、笑いたい時に笑うだけだった。  どうしてあんなに気ままにふるまえたのか、もう、判らない。    安衣料品店とはいえ、礼服一式は結構な出費となる。ちいん、と、玩具みたいな音を立てるレジではじき出された金額は、昨日職を失ったわたしにとって、馬鹿にならない数字だった。  (うわあ)  なけなしの一万円を差し出しながら、密かにわたしは、今のタイミングで亡くなったゆうき君を恨んだ。もっと余裕のある時、もっと大丈夫な時に逝ってよ、おかげで今月分の家賃を払うのにぎりぎりな状態になってしまったじゃない、なんて、とんでもなく冷たいことを考えていた。    母からの電話を受けた後、二日酔いが薄れるにつれて、少しずつわたしはゆうき君のことを思い出した。  色白で細いうなじで、女の子みたいだった。うちの隣に住んでいて、一人っ子だったはず。お父さんとお母さんとゆうき君の三人暮らしにしても、あの平屋建てはとんでもなく狭かった。  子供の時は疑問に思わなかったけれど、大人になった今思い返せば、とても不便な造りの家だった。あの平屋の中にあった部屋は二部屋。台所は別にあった。二部屋のうち一つがテレビとちゃぶ台のある部屋で、そこでごはんを食べていた。二部屋とも和室で続き間になっていて、もう一つの部屋は一応仏間で、ゆうき君のお爺さんの遺影も掛けられていた。  小さい家はこっぽりと手入れのされていない生垣に覆われていて、出入り口は農業用トラックが一台入れるかどうかの狭さだった。庭は雑草の天国だった。  お風呂のタイルはいくつも剥がれて穴になっていて、そこらじゅうにカビが生えていた。  ゆうき君というより、ゆうき君の家のことばかり思い出してしまう。  古い木造平屋のあの家は、お化け屋敷のようで、そこに住んでいる美少女みたいなゆうき君は、あやかしのように見えた。  ゆうき君は母親似だった。お母さんもまた色白で細くて綺麗な人だった。優しくて良い匂いがした。お父さんに関する記憶があまりなかった。筋骨隆々の大きな男の人だったけれど、日中はほとんど家にいなかったから、接する機会がなかったのだ。  ゆうき君とは、多分隣同士ということで、自然に一緒にいるようになったのだと思う。同い年というだけではなく、生まれた日もとても近かった。ちらっと、同じ産科で生まれたと聞いたことがある。  小学校に入り、少しずつ大人の事情が見えるようになってきた頃から、もしかしたらゆうき君の家は、普通ならあまり近寄りたくないような事情があるのではないかと勘付いていた。  あの古くて重苦しい造りの平屋や、道にはみだしまくりの生垣が、すべてを物語っていた。おまけに、夜更けになると男の人の怖い声が響いて来た。がちゃん、どん、というような大きな音もした。  それでもゆうき君はいつでも色白で可愛い顔をしていたし、ゆうき君のお母さんもにこにこしていた。  そう。小学校低学年の頃。  「ゆうちゃん、うちでご飯食べていったっていいじゃないの」    ある晩、階下で声が聞こえるからトイレに行ったついでに覗いてみたら、両親がゆうき君のことで言い合いをしていた。  その日、ゆうき君はうちでご飯を食べてゆき、遅くに帰っていった。多分、なにか事情があったのだと思う。わたしは、いつもとは違う時間帯にゆうき君と一緒にいられて、新鮮で楽しかった。わがままで幼い妹の相手をしているより、ゆうき君と遊んでいる方が圧倒的に良かった。     けれど、父がそのことについて、母に苦言したらしい。何かあったらどうする、とか、もうあんまり深入りするな、とかいう意味のことを言っていた気がする。  それに対して母は、今まで仲良くしていたから深入りするなとかは無理、子供に罪はない、とかいうことを返していた。    ゆうき君自身のことよりも、ゆうき君を取り囲む輪郭部分が徐々に浮かび上がって来た。鬱蒼と茂った生垣や破れた障子、暗い和室の映像。  葬儀前の回想は強烈で、タイムトリップに似ている。礼服の入ったレジ袋を持ち、明るい日差しの下に出ながら、一瞬わたしは、自分が今いくつで、これからどうするべきなのかを忘れかけた。  けれどカバンの中のクリアファイルが目に入り、嫌な現実がたちまち戻って来た。  そうだ、今からこの書類を会社に届けに行かなくてはならなかったのだと、わたしは呆然と思った。  この書類さえ出せば。これさえ我慢できれば、もう二度と、あの場所に行くことはない。  歩き出した時、もう生理開始までカウントダウン状態の下腹が、ぐうっと嫌な痛みを主張した。 **  新人の松本さんのことは、金田さんばかりではなく、直属の上司である清水係長にも伝えていた。もうどうにもできない、辛い、とはさんざん言っていたのに、全然対応してくれなかった清水係長。  もう無理です、わたしを他の部署に飛ばしてもらってもいいです、とも伝えたのだけど、「今は年度がかわったばかりだから」と流された。せめて松本さんの監督をしっかりしてほしかったけれど、お喋り上手な松本さんは、上司、特に男の人からの受けが良かった。清水係長なんか、完全に手玉に取られていたと思う。そればかりかラインで繋がっていて、職場の仲良しでごはんを食べに行く仲間に引きずり込まれていたはずだ。  そこは小さな会社で、ビルの一階のフロアにあった。パーテーションで区切られているので、事務員のいる入り口に入っただけでは皆に姿を見られることはなかったけれど、お喋りや電話の声などは筒抜けに聞こえた。その中でひときわ楽し気で仕事とは全く関係のない調子の一団の中心に、松本さんの笑い声が混じっているのを、わたしは聞いてしまった。  (うわあ、うわあ、うわあ)  生理前症候群も手伝って、松本さんの声を聞いた瞬間に溜まらない重苦しさがのしかかってきた。どこにも逃れられない救われない感じ。世の中は差別と理不尽に満ちていて、絶対に良い風にはならないというような絶望感。  耳栓してくれば良かったとまで、わたしは思った。  会社の入り口で、事務員のスペースに顔を出し、金田さんが素早く対応してくれている間、呼吸困難になりそうな思いで、わたしは立ち尽くしていた。    松本さんは、新入社員にして、入社わずか一か月あまりで、部署を完全に自分のものにしてしまっていた。  社会にはすごい人もいるものだ。年齢も経験も関係がないのだ、こういう類のことは。松本さんは何かに遠慮する必要などまるでない人だ。誰かのことを考えなくても済む人だ。わがままにしていて良い、何を言おうとしようと許される人だ。どうしてなのか分からない。きっと、他の誰かになんで松本さんなら許されるのと聞いてみても、「そういえばそうだね」と、きょとんとした顔をされるのがオチなのだ。  なんの苦労も気遣いも知らない、仕事もまだできないような人に、僅かな時間で自分の積み上げて来たことを崩され、追い出されるのかと思うと、どんより感は嵐一歩手前のところまで来た。  お願いだから早く書類を済ませて帰りたい、と祈るように思った。金田さんも必死だったのだと思う。大急ぎで職安に持ってゆく書類を茶封筒に入れて持って来てくれて、それを差し出しながら小声で、いつでもメールしてきて、またお茶しよう、と囁いてくれた。  早く行った方がいいよ、あいつが来るよ、と、金田さんが唇の動きだけで教えてくれた時、まさにその「あいつ」がパーテーションの奥からのこのこ現れて、おやっとこちらを見たのだった。  清水係長が、黒縁眼鏡の奥からこちらを見て、微妙な作り笑いを浮かべた。会釈だけして帰ろうと思ったら、なんとこっちに寄って来たので嫌な予感がした。    逃げろ。一刻も早く。そしてもう二度とあいつの言葉など聞かないでも良いところに行け。  本能が警鐘を鳴らしたけれど、社会人としてのなけなしの常識が――衝動的に辞表を叩きつけたわたしに常識があるかというと、自分でも疑問だが――足をとどめさせた。  常識なんか、ない方が良い。そうだ、例えば松本さんなんかどうだ。  絶望の予感にうちひしがれながら、わたしは清水係長を正面に見た。眼鏡の奥の目はぎらぎらと敵意に満ちていた。  「大場さんには失望したよ。期待していたのに裏切ったんだよ君は」  期待したのに。次の仕事も任せるつもりでいたのに。いろいろ相談にも乗ってあげたじゃないか。それなのに君は。  ねちっとした言い方だった。  そこには、わたしが今まで悩んできた思いを理解してくれそうな余地は、一ミリたりともなかった。  「話なら聞くよ、なんでも僕に言って」  人当たりの良いことばかり言い、実際わたしが相談しても、本当に「聞くだけ」だった清水係長。きっと、「聞くこと」で、彼の部下への対応は終了していたのだ。  「どこに行っても同じことがあるよ。どうするんだね、君はこれから。もう若くもないのに」  吐き捨てるように清水係長は言うと、「はっ」と、軽蔑するような吐き捨てるような笑いを吹きだして、そのままくるっと背中を向けて、また仕事の場へ戻っていった。  もう泣きべそをかいて、ぼろぼろになっていたわたしは、一言も返せないまま、よろよろと会社の外に出た。ひんやりしたテナントの天井は高く、つるつるとした床は薄暗く蛍光灯を反射していた。  見慣れた風景。もうここに来ることはない。自分で辞めたはずなのに、まるで追い出されるような惨めさで、泣けて仕方がなかった。
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