その二 十分に大事にしてきた

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その二 十分に大事にしてきた

 嫌なことは全部済ませておこうと急くのは、性分だ。本当はもっと先延ばしにすれば気持ちが楽なのに、それができないのが、わたしの損なところだ。  究極に惨めな気分で、しかも今にも涙がこぼれそうな精神状態で、おまけにじくじくと下腹が痛む重たい体で、わたしはそのままバスに乗り、職安へ行った。  青空の下で、これほど息苦しくなるなんて。辞職の後始末に行き、新しい職を探す場所で、もっと悪いことを引き寄せてしまいそうだった。  その予想は違うことなく、建物の中は煙草の匂いであふれかえり――禁煙のはずなのだが――暗い顔をした人、いかにも幸先が悪そうな様子の人ばかりごった返していた。  全て終わらせて、今日という日がとっとと終了すれば良いのに、と、手続きの順番待ちで通路で立ち尽くしながら、わたしは心から思ったのである。  (明日はゆうき君の葬式であっちに行ってるんだよな)  買ったばかりの礼服が、安衣料品店のロゴの入った袋に入っている。重かった。  正月以来、故郷には顔を出していない。今のわたしは時間が余っているし、葬式帰りに懐かしい街並みを見て回るのも良いなと思う。    そうだ。アパート。  ボーナスを待たずに仕事を辞めたわたしにとって、月々の家賃は絶望的に高かった。  貯金はそう多くないし、あっという間に目減りしてゆくのは目に見えている。それなら一刻も早く次の仕事を見つけなくてはと思うけれど、さっき係長からぼろぼろにされたメンタルは簡単に立ち直れそうもなかった。    「一度辞めた人は、次もまた辞める。辞めるたびに次の仕事は酷いものになってゆく」  というのは、誰が言った言葉だろう。世間的に、それが常識と思われていることだ。  辞めたらまた辞める運命のレールに乗る。永久に辞め続ける。嫌な仕事、辛い仕事しか見つからない。呪いのように、その言葉はわたしの頭の中をめぐるのだった。  職安の入り口の掲示板に新着情報とか、緊急のアルバイト募集などの紙が所狭しとばかりに貼りつけてある。名前を呼ばれるまでの時間を、それを読むことで紛らわした。  工場内の作業とか、介護職とか、自分の人生からあまりにもかけ離れた募集ばかりだった。    かといって、元の職が合っていたのかというと、さほどでもない。  思い返せば、あの会社は全然楽しい場所ではなかった。わたしはその不満を、あの会社に集まっている社員と自分が合わなかったからだ、例えば新人の松本みたいなやつ、と思い込もうとしたけれど、どうもそれだけではないことを、深いところで知っていたのだった。  根本的にわたしには向いていなかったのだ、否、わたしに向いている仕事なんかこの世に本当にあるのだろうか。  ぐるぐる考えていると、世の中には自分の行き場がなく、生きていても良いことがないような気分になって来て、ついにわたしは涙を落としてしまった。    通路のベンチでは太った茶髪の夫婦が子供を抱っこしながらだらだらと座っている。夫婦とも職を求めているのだろうか。子供は赤ちゃんで、時々力なく泣いた。  どんよりとした目つきで夫婦は並んで座り、ぽつんぽつんと、自分たちのことを喋り合っていた。  フロアからは、いかにも不機嫌そうなざわめきが聞こえて来た。マイクで呼び出される声も混じる。わたしは順番はまだ遠そうだった。    いっそもう、職安の手続きなどいいから、アパートに帰って寝たい。もうどうでもいい。  泣きながらわたしはそう思った。  その時、壁の掲示を見ているふりをして泣いているわたしの背後を、すうっと涼しい空気が抜けた。風でも通ったかなと思ったけれど、職安の入り口は閉められていたし、わたしの立っている場所はちょうど角で、風が入りにくいはずだった。  あまりにも心地よく優しい風だったので、はっと顔をあげた。鬱屈していた気持ちが風のほうに向いたので、涙はするすると引っ込んだ。  いきなり少し心が楽になり、今まで自分が浸っていた泥沼が嘘のように思えた。きょとんとして振り向いたけれど、そこには何も見当たらなかった。  あれっ。わたしは何を悩んでいたんだろう。そして、この風の香りはどこかで嗅いだことがある。懐かしい優しいにおい。    狐につままれたようだった。  重くてならなかった心はいきなり軽くなり、しくしく下腹の痛みも消えた。だるさは少し残っていたが、苦しむ程ではなかった。  いきなり現実がどうでもよい程度の軽さを伴い、どうにかなるさ、今日の晩御飯は適当に済まして寝ちゃおう、と、思考が働きだした。  そして、風景が目に飛び込んできた。自分の周りの超絶狭い事しか見えなかった視界がふわっと広がり、わたしは自分がいるのが、公共施設の通路で、外は晴れていて、隣接している廃れたショッピングセンターには美味しいアイスクリーム屋さんがあることを思い出したのだった。  アイスのことを思った瞬間、頭の中にフラッシュバックする風景があった。  夕暮れの縁側。むせかえる緑の香り。虫が飛んでいて体が痒かった。蚊取り線香が昔ながらの香りを立てていた。  かなかなかな。ヒグラシが切なそうに鳴いた。ああこれで夏休みも終わりだね、学校嫌だね。そんな会話まで蘇った。隣にちょこんと腰掛けているのは確かにゆうき君で、すごくかわいかったはずの肝心の顔が思い出せなかったけれど、心がぎゅっと締め付けられるような笑顔だけは鮮やかに浮かんだ。  わたしたちは並んでアイスを食べながら、もうじき終わる夏休みを惜しんでいた。  なんてことのない、長いだけの休みも、二学期を前にすると急に愛おしくなった。    「毎日、もっと大事に過ごせばよかったねー」  と、わたしは言ったけれど、ゆうき君はあの時、  「十分に大事にしてきたと思うよー」  と、なぐさめてくれたんだっけ。 **  いきなり楽になってきょとんとしている所に、名前が呼ばれた。  慌ててフロアに飛び込んだ時、もうわたしはちっとも泣いてはいなかった。
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