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第2章:ハトリくんの成績
放課後の教室に、紙の擦れる音とボールペンが紙の上を滑る音だけが響いていた。
律が職員室に日誌を届ける際、担任から頼まれ事をするのはよくある事だ。
今日は授業で行なった小テストの採点の手伝いだった。
解答用紙と正解の書かれた用紙を照らし合わせ、不正解の欄には正しい答えを記入していく。
そんな作業を1人教室でこなしていると、教室に入ってくる人の気配を感じると同時に、快活な声が耳に飛び込んだ。
「よっ、はかどってる?」
顔を上げた先にいたのは、律が憧れる女性だった。
「亜紀先生」
「職員室に行ったら、まだ帰ってないって聞いたからさ」
医務室長の亜紀は律の前の席の椅子を引いて腰を下ろした。
採点が終わった解答用紙を1枚持ち上げ、眺める。そして、呆れたように小さく息を吐いた。
「小テストの採点?これって教師の仕事じゃん」
「あ、はい。日誌を届けに行ったら頼まれて。西野先生、忙しいみたいだったので」
「……三日島さんさ、利用されてない?」
「充分自覚してます。でも頼まれると断れないって言うか、頼られてると思うと悪い気はしないって言うか、困ってる人を見ると放っておけないって言うか……」
「損な性格してるよね、三日島さんって」
まったく、とため息を吐く亜紀を見ても、律は苦笑することしか出来ない。
同じような言葉を、これまで何度も言われてきた。
それでも強く出られないのは、自分の心が弱いせいだ。
「まぁ、私もそんな三日島さんを利用しようとしてる1人なんだけどね」
そう話しながら、亜紀は白衣のポケットから赤マーカーを取り出し、まだ採点が終わっていない解答用紙を手に取った。
どうやら手伝ってくれるらしい。
元の頭がいいのか、彼女は解答例も見ずにすらすらと手を動かしていく。
やっぱりすごい人、と改めて憧れの念を抱いた。
「損な性格ついでに、私の相談も受けてくれないかなぁ、なんて都合のいい期待をしながらここに来たんだけどね」
「相談、ですか?」
「そう。多分三日島さんにしか解決出来ない相談」
「私にしか出来ないことなんてないと思いますよ」
採点する手を動かしながら会話を続ける。
二人がかりで取り掛かった作業はものの5分で終わってしまった。
小テストを1つにまとめた亜紀は、後で職員室に届けておくよ、と自らお使いを買ってでてくれた。
「それでね、相談。楓君の事なんだけど」
「羽鳥君?」
律が聞き返すが早いか、亜紀は律の机上に数枚の紙を乱雑に並べた。
それは、4月の始業式が終わってすぐに行なわれた、実力テストの解答用紙だった。
まだほとんど授業が始まっていない時期に行う実力テストは、一年次の復習テストだ。
成績に直接関わるものではないものの、平均値の半分の点数と定められた赤点を取った生徒には再試や追加課題が課せられる。
記名欄には羽鳥楓の文字があった。
何故医務室長の亜紀が楓のテスト用紙を持っているのだろうという疑問は、視界に入ったそれぞれの点数にかき消された。
現代国語28点。数学34点。化学31点。世界史40点。英語35点。
赤点を回避しているとは言え、どれもギリギリの点数だ。
常に90点以上をキープしている優等生からは想像も出来ない点数で。
律はしばし言葉が出てこなかった。
「教室で授業を受けられないから、いつも医務室で教科書を読んでるだけでね。どうも頭に入らないみたいで」
「……なるほど」
どうにか絞り出した声は少し掠れていた。
この赤点ギリギリのテストを見せられて、どうしろと言うのだろう。
戸惑っている律を拝むように、亜紀は胸の前で手を合わせた。
「放課後とか昼休みとか、暇な時だけでいいから楓君の勉強を見てやってもらえないかな。このままじゃ楓君の将来が心配なのよ。優等生で楓君の事情を知ってる三日島さんにしか頼めないお願いなの」
彼女の言い分は分かる。
確かに一年次の復習の時点でこの点数では、今後進学も就職も危うい。
テスト用紙をじっと見つめていた律は、やがて亜紀に視線を移して大きく頷いた。
「私に任せてください。部活もしてないし、定例委員会の時以外なら時間はあります。いきなり80点とかは難しいかもしれませんけど、せめて期末テストまでに平均点を取れるように頑張ってみます!」
「ありがとう!さすが三日島さん!手はかかると思うけどよろしくね!」
過ぎるほどの褒め言葉に例の“頼られてる感”を感じ、誇らしげな気持ちになる。
律はこの時はまだ、亜紀の言葉の真髄を理解してはいなかった。
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