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「ちょっと」
急に昇降口の片隅でそう呼びとめられた。
私は眉に少しだけ力をこめて、ふり返った。
立っていたのは、先日廊下にいた、あの人だった。
襟元を見ると、2年の学年章がついている。
何か注意されるのかしら、とやや身構えたが、その人はどこか頼りなげに眼をさまよわせている。
「私……コバヤシって言うんだけど。アナタのお名前聞いていい?」
「あの」
私は足を軽く踏み替える。
部活の勧誘だろうか? それとも、演劇部の人だろうか。演劇部はやっぱり性に合わないみたい、と少し前に廊下で大きな声で話していたのを聞かれていたのだろうか?
真剣に演劇を愛する先輩からの『お説教』かも?
辺りを軽く見渡したが、ちょうど誰も通りかからない。
グラウンドで走り回る野球部員の小さな姿が非現実的な背景となっている。
時空の隙間に落ち込んだような感覚だった。
「あの、ミゾロギ、です」
相手がかすかに眉を寄せたようなので言い直す。「ミゾロギ・シオンです」
相手は顔を上げた。なぜかこちらの目ではなく、右の耳たぶを、それから左の耳たぶを見つめた。そしてそのまま聞いた。
「セル・ネームはないの?」
「えっ?」
突然飛び込んできた単語に、思わず訊き直した。
「セル……ネーム?」
「て言うか、」
すっ、と白い手が伸びて、私の耳に軽くかぶった髪を跳ねのけて下から現れた耳たぶを軽くつまむ。
「な……?」
身じろぎもできず立ち尽くす。
細くて温かい指。彼女は耳をつまんでいた手をもう片方の耳たぶに移した。爪の先が柔らかい肉にわずかに食い込んだ。くい、と軽く押さえるような無遠慮なつまみ方をされて、なぜだかじん、と身体の芯が熱くなる。
思わず「んふっ」と声が漏れた。
彼女の髪からだろうか、甘い花の香りがふわりとからみつく。
コバヤシと名乗った人はどこか遠くをみるように目線を外していた、長いまつ毛の中で、黒目がちの瞳を潤ませている、その目の艶めきに更に、私は息をのんだ。
あの目……
ぱっと手が離れ、私はついよろめく。
「て言うか、ごめんなさい」また彼女は謝った。
「カン違いしてた、貴女も会員なのかと思って」
「か、会員、ってセル会員のことですか」
まだ身体の内部(なか)が熱い、頬も紅潮しているに違いない、どきどきを隠せないまま、それでもようやく思い至った。
この先輩は、先日昼休みの私たちの会話をたまたま小耳に挟んだのだろう。
私はあわてて聞いてみた。
「すみません、セル会員のことご存知なんですか? 先輩」
返事の代わりに、彼女は片方の髪を後ろにかき上げて耳をさらした。
耳? いぶかしげに眺める私の手を今度はぐいとつかんで引き寄せ、自分の耳たぶに触れさせる。
更に近くなった彼女の香りに息が止まりそう。でも、指の先に何かが当たったのに気づいた。
「何?」
指を離してみると、表側からは何も伺えなかったが、彼女がひっくり返してみせてくれた裏面に、直径2ミリにも満たないようなクリーム色の点がみえた。
「これが?」
コバヤシさんが耳を探ったのは、これを探していたのか。
「イヤーエイク」
彼女はさらっとそう言って、ようやく私の目をまっすぐに捉えた。
「会員でなかったのなら、本当にごめんね。でも」
そこから、少し言葉に詰まったように顔を横にそむけた。「あのね」
ようやくそう言って、コバヤシさんは急に咳こんだ。
「あの、大丈夫、ですか?」
「うん」
まだ口もとを押さえたまま、彼女は苦しげに後を続けた。
「登録はカンタン、でもね」更に咳がひどくなる。
大丈夫ですか? と私はうずくまりそうになったその背中をさするしかできない。
「あの、先輩、大丈夫ですか? 誰か呼んで来ますか?」
涙のいっぱい溜った瞳をようやく上げて、
「み、ミゾロギさん」
コバヤシさんは発作の合間にようやく言葉を継いだ。
「……たいせつな……もの」
「えっ、何ですか?」
「……に関わると」
それ以上は押し寄せるような咳の発作に、彼女は声も出せずにその場に崩れ落ちる。
今度こそ迷わずに「先生!」私は保健室へと駆けていった。
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