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サテライトオフィス
月曜は代休で、普段ならば一日休みが多くてラッキー、そうだ、ミホに電話してみようかな。
なんて考えてしまうようなのどかなその日、私は独りで電車に揺られていた。
家から電車で2駅、そこに『セル・サテライトオフィス』があるとコールセンターで聞いていた。
着いた駅はそれほど大きくはない。
南口から出てすぐこじんまりしたターミナルを見渡してみる。
グーグルマップで調べた通り、そのまま駅の南に伸びる広い通りをしばらく海の方に向かって歩いていった。たいした建物もない。のどかな田舎町だ。
10分ほど歩いて間もなく、目当ての白いビルを左側に見ることができた。
四階建てのように作ってあるが、一番上の階は単に、屋上を高い壁が覆っているだけのようで、四角い穴にはガラスも嵌っていなかった。
看板には特に『セル』などの文字はない。ただ、三階の高さに『○○海上火災』と白地に黒い文字看板がひとつあるだけで、地味なオフィスビルという感じ。
建物のちょうど真ん中、大きなガラスの嵌ったドアを押しあけ、そのまま階段を上がっていく。
案外新しいビルのようで、清潔感が漂っている、新車のシートがビニルで覆われたような、いかにもまだ手つかずですという匂いがしていた。
二階に着くと、オフィスドアが左右にひとつずつ、左のドアに、小さく名刺大の紙が張ってあった。
紙には簡単に『イヤーエイク・セル 河西サテライト』とあった。
その文字を目にした時、また耳がズキンと痛んだ。
片耳をつまんだままもう片手でそっと、細いバー上のドアノブを押してみる。
ドアは最初、少しだけ手に抵抗を示し、急にすい、と内側に開いた。
思ったより中は広く、明るい光が窓から一杯にさしこんでいた。
白っぽい家具の中、観葉植物がバランスよく配置され、奥ではかっちりした制服に身を包んだ女性が一人、ちょうど電話を切ったところだった。
「こんにちは」
女性は顔を上げて自然にそう笑いかけ、もの問いたげに私を見つめた。
「あの」
私は口を半分開いたまま、入口の前に立ちすくむ。
どうしよう、何だか優しそうな人、事務の人なのだろうか? この人にどこまで話していいんだろうか? 責任者の方いらっしゃいますか? って聞いた方がいいのかな。
「あの」
つい、また耳たぶに手をやっていた。その様子を見て、女性はああ、と更に明るい表情になる。
「今朝お電話くださった、ライムさんですね」
「はあ」
「少しお待ち下さいね」
明るい口調のまま、片手でまた受話器を掴んだ。人差し指を伸ばして2つばかりボタンをプッシュする、すぐに誰かが出たらしい、彼女は
「ヒガキさん、ライムさんいらっしゃいました」
やはりこの女性は単なる事務員さんなんだ、いきなり退会します、なんて話さなくてよかった、
ヒガキという人がここの責任者なのだろうか?
電話を切った事務員さんに、何となくおじぎをしてから、脇にある大きな観葉植物の葉を何となくつついてみた。
隙間の多いうちわのような葉だった、何と言う名前なのだろう、ぼんやり考えていたら急に、
「思い出を寄付して頂けるとお聞きして」事務員さんの声に、私はあわてて顔を上げた。
「は、はい」
「よかったです」
彼女はにっこりとほほ笑んだ。
何故だか分らないけど、入ってきた時と明らかに違ってみえた。何が違うのか全然見当がつかない、しかし、何かが不安感を掻きたてる、急に日が陰り、オフィスの中がひやりと暗くなった。温度まで下がったようだ、ぶるりと身震いが襲う。
事務の人は、影になって表情はよく解らない、確かにまだ笑っているようだ、しかし、声の温度まで数度下がってしまったような、温和そうな部分だけかき消え、平板な事実を告げる声音に変わっている。
「よかったです、ほんと。思い出だけで。『大切な人』とか登録してなくて」
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