第9話 目に見えない大切なもの

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第9話 目に見えない大切なもの

何年の時が過ぎても色褪せないものがある。それは音楽であったり、映画であったり、良いものや好きでいたもの、それは何年も前から何も変わらずにスイッチを入れさえすれば、いつでもここに戻ってくる。 (変わってしまうのは…、きっと変わってしまったのは「自分」なのだろう。) 「香り」は意識の奥底に凛と存在し続けて、その香りを嗅ぐと遠い昔の記憶が一瞬にして蘇る。それは季節の風であったり、愛した人の香水の匂いであったり。好きだった「曲」を聴けば、その時に過ごした家族や友、そして大切だった人を思い出す。懐かしさのあまり、自然と涙を流し感情が込み上げてしまうこともあるがそれがいい。人生にはそんな劇的な思い出が幾度と訪れ、その度に人は成長するのだから。。 「幸福とは幸福を問題にしない時を言う」と、かの文豪が書に綴ったことを思い出し小さく二度頷く、まさにその通りに栄一と彩の時間は当たり前のように平凡だがそんな細やかな「幸せ」、それがずっとずっと続くことを望んでいた。。 彩と栄一が初めて2人の時間を過ごしたあの日あの時から… 「お母さん 、彩…」 「うん… 今原宿 うん…」 「もう少ししたら帰るから…」 「うん…大丈夫。」 近くを行き交う人々も皆、突然の豪雨を恨めしそうに口走り、雨に濡れてシャツの色が綺麗にグラデーション模様を描いている。 原宿駅まで、降り出した雨の中を走り抜けた2人。繋がれた手と手の温もりを思い出し、右の掌を広げて見つめる栄一は、公衆電話で母親に帰宅の連絡をしている彩を待つ。 電話の受話器を置いた彩が足早に栄一に走り寄る。 髪の毛が雨に濡れてしまったことと、まだ母に「話していないこと」を隠している後ろめたさで表情が少し沈んでいる。それでも、再び繋がれた手でその温かさと栄一までの距離が無くなった途端に笑顔が戻る。 「お母さん、傘を持ってないこと気にして…」 そう言う彩は笑みを含みながら、少し照れくさそうに濡れた髪の毛を気にしてハンカチで拭っている。 「夏でも風邪ひかないようにしないとね。早く帰って着替えないと。送ってくよ。」 彩の笑顔が消えて目線が少しだけ下がった。 「えっ、どうしたの?」 「ホントはまだ帰りたくないんですけど…」 栄一は彩の言葉で自身の思いと同じであることが確認出来たことが嬉しかった。でも今日はもう家に帰った方がいいと思っていた。 「コーチだってまだ別れたくないけど。でもまた直ぐ会えるし。」 この場合の『直ぐ』にスケジュール上の確証は全く無く、今の栄一の気持ちと希望を表した表現に過ぎなかった。 「ホントですか?直ぐっていつですか?」 火に油を注いだように、大きくなった目の彩に早速突っ込まれた…。 「あっ、コーチが直ぐに会いたい気持ちだってことなんだけど…。でも来週の彩のレッスン後にちょっとだけ会えると思う。もちろん彩の予定が大丈夫ならね。」 栄一はこの先1週間の予定を頭の中で倍速で回してスケジュールを見つけた。 「来週って…、1週間も先ですか〜?」 残念そうな彩の表情に申し訳なさのパンチを食らった。でもそんな彩が愛おしく思う。 「正確には5日後だよ。5日の辛抱でまた手が繋げるんだけどどう?」 急に彩の表情がパッと華やかに変化する。まるでドラマの1シーンのよう。。 「コーチのその言い方、凄く嬉しいしいいと思います。そうですよね。たったの5日ですよね。。」 とても分かりやすい素直な彩がここにいる。 彩の自宅は新宿から西武新宿線に乗って45分くらいに位置する。原宿から山手線に乗って新宿まで向かう電車内はさほどの混み具合ではないものの、冷房がおせいじにも十分とは言えず、先ほどの豪雨で濡れた乗客たちからの湿気で居心地はあまり良くなかった。 しかし、「幸せな関係」になれた2人にとってそんなことは1ミリも気にならない。電車の揺れに栄一が彩を抱き寄せるほどには、まだ少しだけ躊躇があるよう、手を繋いでいることが今は精一杯であって、でもこれ以上の幸せは無いように思えていたのは2人とも同じだった。 「彩、寒くない?」 「全然大丈夫です。」 彩がそう答えるタイミングで少し握った手に力が入ったので、栄一も少しだけ力を入れて握り返しそれに応えると、お互いが相手の目を見て自然な「確認」をする。 ほんの1時間ほど前までの2人の距離は既に遠い過去のものとなっている。そんな恋人たちがする極々当たり前のことが2人を幸せな気持ちにさせてくれる。 新宿駅に着くと、雨も微かな小雨程度に落ち着いていたので傘は買わないことにした。そして西武新宿駅に向かう雑踏の中を歩くときにも2人は繋いだ手を離すことはなかった。 「彩…」 栄一は言葉を切り出すと同時に躊躇で言葉を詰まらせた。そんな栄一を見ながらにっこり笑う彩、その言葉の続きを待ちきれず… 「はい、コーチ。」 また彩の握る手に少し力が入る。彩の瞳を見つめる 栄一は… 「今日僕に会うことをお母さんには話して来た?」 そっと聞いてみた。 彩は栄一の目を見たまま小さく首を横に振った。 「僕たちのことをお母さんに話す?話さない方がいい?」 彩に勘違いされないように出来るだけ優しく言葉を出した。大きな水溜りを避けるために彩を引き寄せ右に大きく回り込む。 「コーチは話さない方がいいですか?」 そう言いながらほんの少しだけ不安そうになった彩の表情を一早く笑顔に戻したく、今度は栄一が横に首を振る。 「そんなことないよ。コーチは話してくれた方がいいんだ。隠すことはしたくないから。」 足元の水溜りが気になって彩の顔を見て話すことが出来ないが、栄一の本音である。 「もう少し経ってからでもいいけど、出来るだけ早いタイミングがいい。でも…」 栄一の目線が彩から外れた。彩に不安気な表情はもうなく、笑顔が戻っている。 「でも、何ですか?」 栄一を少し覗き込むように彩が聞き返すと、 「コーチと付き合う…って聞いたら、お母さん反対するかも…」 照れ笑いなのか苦笑いなのか、今度は栄一が少し感傷的な表情になる。 「絶対そんなことないです。コーチだったらお母さんもすごく喜ぶと思います。だって、コーチはテニスのプロだし優しいし大人だし、それでカッコいいし…。あっ、うちのお母さんはイケメンが好きなんです。」 彩の言葉に数時間前青山通りを歩いていた時の元気が戻っている。頬に当たる雨粒が少し大きくなったような気がする。 「褒め過ぎだよ。少しテニスが上手いくらいの男だから。でも、きっと悪人ではないと思うけど。」 「そんな謙遜しないでください。コーチは絶対悪い人ではないです。」 彩の口調から、栄一の味方であることは間違いないようだ。 「たとえお母さんに反対されても、反対されそうでも、隠して付き合えばきっとたくさんの嘘をつかなければならなくなるでしょ。そんなことを彩にさせたくないし…。」 栄一は立ち止まり彩の目を見つめながら本音を伝える。周りのイルミネーションの光が反射して彩の顔が赤や青、明るくなったりパッと暗くなったり。 「コーチ…」 「もし反対されたら、僕がお母さんに会って話したい。そして反対されないように努める。認められるようにね。」 大きな横断歩道の前に立ち、向こう側にそびえ立つビルを眺めると、顔に雨粒の集中砲火を浴びるが、それも満更ではなく気持ちいい。 (今、泣いても涙か雨か分からなくてちょうどいいかもね。。でも特に泣く理由ないから。。) 栄一は他愛もないことを想像していた。 西武新宿駅に着き、改札に向かうエスカレーターは人が並び混み合っている。栄一は彩の手を引いて階段に向かった。足を運ぶ労力とは言え僅かな距離、それに待つ時間の間に登れてしまう。 「彩、どこまでの切符を買えばいいの?」 「東大和市です。」 「了解。」 何列も並ぶ切符販売機には、ちょうど社会人の退社時刻後のタイミングもあって混雑している。 ホーム入り口に体を向けると、行き先と時刻を伝える電光掲示板が直ぐに目に入った。彩は途中小平で乗り換えのいらない直通運転の電車が間も無く発車することを知り、 「コーチ!」 少し強引に栄一の手を掴みスタートダッシュ。 「おっと!」 (今日はよく走る日。。) そう思う栄一だった。 2人が飛び乗った直後に車掌の警笛が鳴り響きドアが閉まった。その勢いで彩の前髪がめくれて額があらわになり、気にしながら髪の毛を下ろしている。 間一髪だったことに思わず笑い声が出てしまい車内の注目を浴びているが、ちょっとしたスリルも今の2人にとっては楽しくて仕方がない。 昼間のように明るく照らされたホームから屋外に走り出した電車、車窓の外が真っ暗になると流れる雨に被って栄一と彩の2人を映し出す。とても楽しそうな2人の表情はきっとこの車両の中で誰よりも幸せを感じている表情に違いない。 西武新宿線東大和市駅のホームに電車が入る頃には、また雨足が強くなっていた。彩の自宅は駅から歩いても帰れる距離だが、この雨ではバスを利用することが賢明だ。タイミングよくバス停にお目当てのバスが発車を待っている。 「コーチ、あのバスです。」 再度、彩が栄一の手を取って引っ張り走り出す。栄一はもう驚くこともなくむしろ身をまかせ、彩の手の温かさがその嬉しさを何倍にもしてくれた。 バスに乗り込むと座席がほとんど埋まっている程度の乗客だった。奥の座席に母親と並んで座る小さな男の子が栄一と目が合う。栄一は口角だけを上げて挨拶に代えると小さな男の子もニッコリと挨拶を返す。2人は降り口近くに立ち止まり、栄一が吊革を掴んだ時に彩もすぐ横の吊革に手を伸ばしたがすぐに手を下ろして栄一の顔を覗き込む。 「ん?」 栄一の問う表情に、彩の手はそっと栄一の腕を掴んだ。 「うん。」 栄一の了解の表情に彩が照れた表情で微笑む。 「そんなに僕のことが好き?」 意地悪と分かっていて悪戯に聞く栄一。 ふいを突かれて目を大きくして栄一を見つめる彩。 「コーチ…、ホントに意地悪ですね!」 悪戯と分かっていて言い返す彩の表情は柔らかく優しい。 バスは間もなく発車してロータリーを大きく右に回って車道に出ると左に曲がった。ちょうど帰宅時間もあって、一日の仕事を終えたお父さんを駅まで迎えに来ているハザードランプを点滅させたお迎えの車が何台もロータリーに止まっていた。 「時間はどのくらい?」 彩に顔を近づけた栄一。その顔を左右に瞳を動かして見つめる彩。 「5分くらいです。いつもは雨が降ってなければ歩いて帰ります。」 そう言った彩は目線を栄一の腕を掴む自分の手に移した。少しだけ微笑む。 「今日お母さんに会ったりして。」 栄一も微笑みながら発したが、ひょっとすると意地悪に見えてしまった表情、されど栄一は期待に胸を膨らませた言葉だった。 「えー、私が緊張しちゃいます。でも私は自信を持って紹介しますから。」 彩の口調は言葉通りのしっかりしたものだった。 「ありがとう。」 バスが発車して間もなくのこと、 「コーチ、コーチ、あそこにあるお店すっごく美味しいんです。フランス料理屋さんなんですけど。」 バスの車窓を指差しながら、少しだけ声が大きくなった彩ははしゃいでいるように見える。彩の指差す方を見ると雨で歪んだ車窓越しに「仏蘭西亭」と書かれた看板が見える。少し古ぼけた感じに見えるがそれもまた味があって、料理が美味しそうに思えるイメージだなと栄一は思った。 「じゃ今度一緒に食べに行こう。でもフランス料理だったらスーツ着ないといけない?」 栄一も言葉では落ち着きを払っているが、心の中でははしゃいでしまっている。 「全然大丈夫です。フランスの家庭料理って感じのお店なのでラフな感じで全然OKです。」 栄一はフランス料理に詳しいほど堪能して来た訳ではないので、それが家庭料理と聞いてもピンと来ない。それでも今のところは彩との時間が一つでも多く約束されるのであれば、それが公園のベンチでハンバーガーであっても、高級料理店のテーブルで向き合ってナイフとフォークを不器用に扱う食事と大して変わらないほどに思えた。 人を好きになることはやはり人生を豊かにするために必要な感情に間違いない。それは栄一にとってテニスに投じる自身の価値観と同等であことに気が付いた瞬間でもあり、すれ違いばかりの過去の恋愛が頭の中で薄っすらと通り過ぎて行った。 駅を出たバスが5分ほど走った。ここまで一度も交差点を曲がることはなかった。 「次で降ります。」 彩が降車のボタンを押して、 「まだ結構降ってますね。。でもバス停から走れば3分で家に着き…」 彩の言葉が止まったことの意味を栄一はすぐさま察し、 「たとえ雨に濡れても走らない方がいい時もあるよね。」 栄一の言葉は、当たり前のように自然に口から溢れた。その言葉は彩の口元を綻ばし、 「そうですね、今日はゆっくり歩きましょう。走ると危ないし。」 2人が降りる停留所が、大きなフロントガラスをしきりに撫で回すワイパー越しに少し雨で歪んで見えてきた。 バスは停車とほぼ同時にブザーのような音と共に降車扉を開ける。栄一たち以外にもここで降りる客が2〜3人いて、その後に2人は続いた。 バスを降りると正面に1人の女性が傘を片手に立っていた。自らも傘をさす佇まいは上品さを思わせる。 彩と栄一を見つけたその女性は笑みを浮かべている。 「あっ、お母さん…」 彩の小さな少し強張った声が栄一にははっきり聞こえた。 栄一は直ぐに頭を下げ、 「こんばんは。」 彩の母も同じ言葉を、栄一よりは少し余裕のある、決してトゲのない優しい口調で返した。 バスは用を済ませたことでブザーと共に扉を閉めて走り出し行き交うヘッドライトの中に直ぐに馴染んでいった。。 栄一は彩の目線が少し下がっていることに気がつく。 「お帰り。コーチに送ってもらったのね?」 お母さんの顔は優しく微笑んでいる。不思議なのは疑いや嫌味なテイストは微塵も感じない、まるで栄一たちのことを分かっていたかのような雰囲気…。。 「うん…」 「彩だけかと思ったから傘は一本しか持って来なかった…、あらやだ一本で十分よね、はい。」 この言葉にも嫌味はないが、走る車が多く、少し声のボリュームを上げないと届かない。お母さんの差し出す傘を少し戸惑いながら受け取る彩は、 「お母さん…」 彩の声はボリュームが上がらない。。 「じゃ私は先に帰っているから。コーチ、すみませんこんなところまで来ていただいて。」 「そんなことないです。傘ありがとうございます。」 お母さんはもう一度栄一と彩それぞれに会釈をして少し足早に歩いて行った。その背中はとても姿勢が良く歩き方もしなやかな振る舞いを感じさせた。 「言ってたことが本当になったね。」 栄一は少し楽しそうに声を出した。 「今日…、今日コーチと会うって話してなかったので…」 「そっか。でもそんなに特別に不自然なことでもないのかも。」 その言葉に彩は栄一を見る。 「お母さんは優しい人なんだね。きっとお母さん驚いたと思うけど。だからもう今日話した方がいいよ。」 彩は小さく頷く。 「これから僕がお母さんに話してもいいよ。」 「大丈夫です。私がちゃんと話します。」 彩の声はしっかりとしている。 「うん。」 一本の傘を開き彩の自宅に向かって歩き出す2人。もちろん2人用ではないので栄一はほとんど傘に入れていない。あっという間に体の右半分が影をさしたように濃くなる。でもとりあえず2人の距離は0センチになれるので何も問題に感じずそれがいい。 雨は体を冷やし服を濡らす。街中から色を奪うばかりか。。 お母さんの姿は降り続く静かな雨の中にゆっくりと溶け込んで行くように見えなくなった。その凛とした後ろ姿は、まだ2人にはない大人の姿勢であることに2人とも気が付いている。 「お母さん心配してるかな。」 少し俯き加減になった栄一の頬を雨が伝っている。 「心配はしてないと思います。だってコーチだから。」 少しだけ彩の左側が雨で濡れて来ていることに気付いた栄一は傘を彩の方は大きくスライドさせた。 「コーチ、全然傘に入ってないじゃないですか。」 彩は栄一の待つ傘のポジションを戻そうとする。 「大丈夫だから。」 既に栄一は髪の毛まで風呂上がりのように雨が滴るほど。 「コーチはやたら丈夫なんだ。でも彩はお嬢様だからね。」 少しだけトーンを上げた声に、 「あっ、コーチまた意地悪言ってますね!私はお嬢様なんかじゃないです。私、丙午の生まれなんですよ。だから気性が荒っぽいのかも。」 意外な事実を知った栄一の顔が綻ぶ。 「それなら安心。コーチは極々平凡な中流家庭に生まれ育ったからハイソサエティーで上品な振舞いが苦手、ぶっきら棒でざっくりしている方が付き合い易いんだ。」 彩の大きな瞳が栄一を見つめる。 「だからひょっとしたら私がコーチを尻に敷くかもしれないんですから覚悟しておいてくださいね。」 悪戯っぽい瞳に変わった彩は得意そうに栄一を覗き込みながら体を押し付けてくる。髪の毛に付いた小さな水滴が街灯に照らされる度、まるでラメをまぶしたようにキラキラと光っている。 さすがにこの言葉には栄一も声を上げて笑い出し、彩に体を向けて、 「彩、面白いね。」 傘は完全に彩だけを雨から凌がせ、栄一は全身に雨を感じている。 「はい。一緒に居ると楽しいです。」 2人の視線は歩く方向ではなくお互いの微笑む顔を見ていた。それはそれはとても幸せそうに。 (いつも本当に大切なものは目に見えないもの。目に見えるものは、たとえそれが山のように大きな壁であっても自分なりに工夫して自然と対処している。人は姿形の無いものほど高く大きく評価するもの。それは神がそうであるように。) 住宅地にたたずむ公園が見えて来た。 「あ〜あ、着いちゃった。。公園の向こう側を曲がったところが私の家です。」 公園を囲むように整列している閑静な住宅街、建ち並ぶ家々は立派なものが多い。 「この公園はよく遊んだ場所?」 遊具が3つ見える。ジャングルジム、滑り台、そしてブランコ。 「はい!小さい頃は家にいなければほとんどここに来て男の子たちと遊んでました。」 栄一がその時の様子を想像するのはとても安易なことであった。ブランコに乗って彩の背中を押しているのが男の子、彩はジャングルジムのてっぺんでその下に男の子たち。滑り台は彩が一番最初だったんだろう…。 「少し彩のイメージが変わったんだけど…。もちろんいいイメージだよ。」 「本当ですか?じゃ今度ここで一緒に遊びましょ!」 無邪気な彩が戻った。もう母親への心配は無いようにも見えるけど。。 「了解!次にここに来る時は雨じゃないといいね…、それと…」 何かに気が付いて思い出したかのように、 「コーチ、目が大きいです!それと…、何ですか?」 「公園で彩と一緒にブランコに乗るくらい楽しいことが他にもあることに気が付いたんだ。」 「えっ?」 今度は彩の目が少し大きくなった。 「練習しなきゃ、2人で出るダブルスの試合に向けて。」 「あっ!」 それを聞いた彩の目は更に大きくなり口も開いてしまい固まってしまったようだ。 「そ、そうですよね…」 栄一が吹き出してしまったのは、あまりにも彩の表情の変化が分かり易かったから。 真っ暗な空を見上げた栄一、雨を顔全体で感じながらこの後の彩と母親とのやり取りを少し心配していた。彩一人に辛い思いをさせたくない。。 家の前に立ち、すっかり濡れてしまった二人の体をお互いが見つめ合い、 「コーチ、今日はありがとうございました。なんか…」 少し彩のトーンが下がったような、、 「なんかって何?」 「なんか、コーチに迷惑かけちゃったかなって。」 「ばーか。」 栄一にしては珍しくダーティーな言葉が出てきた。 「何が迷惑なのか分からないし、もし迷惑だったら今僕はここにいないでしょ。彩が好きだからここにいるんだよ。」 彩の顔が明るく開く。少し照れて赤くなってきた。 「ありがとうございます。本当にありがとうございます。」 「お母さんにちゃんと話して。必要ならいつでも僕が話すけど。」 「はい!ちゃんと話します。お母さん、きっと分かってくれます。」 「うん」 栄一は右手を差し出し、彩はそれに習った。2人の濡れた掌は一つになって、それはまるで充電でもしているかのように温度を上げていった。 「コーチ、傘持っていってください。」 「ありがとう。次に会う時に返すね。」 その言葉に彩は何かを感じたようだ。 「次に会う時…。なんかいい言葉です。次に会えることが約束されてるから。」 「うん。」 無意識に発した言葉でも、栄一も同じ喜びに気が付いて彩に微笑んだ。 「あっ、コーチ…」 「ん?」 「帰り道って…」 「大丈夫だよ。確か駅から一度だけしか曲がってなかったよね。だから覚えてるから。」 心配不要の仕草を軽く右手で彩に伝える。 再び傘を開きもう一度彩に一瞥すると、彩の右手が胸の高さで開いて栄一に向けられていた。少しだけ寂しそうな表情と共に。 (もっと一緒に居たい…) 雨の中、火を見るよりも明らかな二人の慕情が溢れていた。。 そんな彩に背を向けて10数歩進めばもう曲り角。 ここを曲がれば、今日二人が共有して来た時間は終了となる。そう思いながら栄一が振り向くと、彩の右手は先ほどよりもより高いところに挙げられて、二人の時間の終わりを惜しみながらも今日過ごした時間に、感謝と喜びに満ちていた。 栄一は右手人差し指を彩に向け、直ぐに親指を自身に向け、続いて右手に拳を作り胸にあてた。そのジェスチャーには… 『彩と僕はいつも心の中に』 そんな意味を込めていた。 彩はその表現を理解出来ていないよう。少し首を傾け口角が上がっている。それでも同じジェスチャーを栄一に返した。 軽く頷き、軽く右手を振って彩への今日最後の挨拶。静かに降り続く雨の中、静かに歩き出し道を曲がった栄一、彩という一人の女性が「大切な存在」、テニスという「大切な目標」、今度こそは両立させられるよう、彩のために、そして自分のために、一人心の中で初心表明の言葉を探していた。 これからの2人の時間がもたらすことは全てが「幸せ」とは限らないのかもしれない。過去の暗い影が栄一の脳裏に蘇り、彩と重なる擦れた幾つかの顔。。瞬時に払拭しようと首を左右に振ると、雫が飛び散り思いの外ずぶ濡れになっている自分に気付かされる。濡れた顔が涙でないことは間違いないが。。 (彩は、きっと、違う...) 彼女の勇気、ひょっとすると栄一以上の強い精神力があったからこそ動き出した時間に彩への感謝さえ覚えている。その度胸ゆえに2人は手を取り歩き始めたのだ。 雨の降り方は変わらず街中を包み込むように降り続いている。大通りに出た栄一は無意識に左に曲がり行き交う車のヘッドライトに照らされ、その眩しさが数時間前の原宿でのことを思い出させる。 「私…、コーチに嘘をついてました…」 途絶えることのない人の雑踏の中、振り返れば一人立ち止まっている彩。俯いたその顔を上げた時、目に溜まった大粒の涙が頬を伝って流れ落ちる。その涙を追いかけるように栄一の視線も落ちた。アスファルトには弾け散った滴の跡が数メートル離れた栄一にもはっきりと、それはまるで彩の体の一部のように感じた。。 どのくらい歩いたのか分からないけど、ふと顔を上げるとスポットライトにてらされた店の看板が目に入った。 『仏蘭西亭』 もう駅のすぐ近くまで戻って来たようだ。彩がバスの中で話していた美味しいお店。肩を張らずに気軽に入れるフランスの家庭料理のお店。いつかここに彩と来られることを楽しみにしておこう。そう思いながら店の前を通り過ぎる時、何気なく覗き込んだ店内に、栄一の目に止まる顔が… (洋平?) 思わず立ち止まりその顔のあるテーブルを見回していると、らしき顔が栄一を見て目を大きくして立ち上がった。その顔の口元が「コーチ」と動いたのが読めた。洋平は足早に席を立ち店の入り口に向かう。扉が開くと大きな声で、 「コーチ!」 「洋平!」 「コーチ、偶然ですね。」 洋平の顔は満面の笑顔。 「だね!今日は家族で食事なんだね。」 「はい!」 少し久しぶりになった洋平の顔に栄一の顔も素直に綻ぶ。 扉の後ろから父親らしき男性が顔を覗かせる。 「お父さん、いつもレッスンしてもらってるコーチ、市川コーチ…、あっ市川プロだよ。」 洋平は子供のくせに律儀なところがある。人に気を使うことの出来る性格はきっと両親の育て方なのだろう。 「プロ、いつも子供がお世話になっています。いつぞやは洋平の食事についてお力添えをいただいたこと聞きまして、ご挨拶出来ずにいて大変申し訳ありません。」 洋平の父は、最敬礼ほど腰を曲げて栄一にお礼を言った。 「お父さん、そんなにしないでください。私は出来ることをしたまでなので…。それに…、あの店の弁当ほんとに美味いんで。」 「洋平は家にいて、口を開ければテニスのことか市川プロのことしか話さないんですから。あっ、プロよろしかったらご一緒にお食事いかがですか?」 そんな父親の誘いに栄一の胃袋も素直に応えたかったのだが、一瞬で彩とのことを思い出し… 「すみません、たった今友人たちと食事を済ませて来てしまって…、それにこんな状態ではお店にも迷惑をかけてしまいますので…」 と、自分の濡れたシャツやズボンを摘んでアピールしてみた。 「プロ、そんな服では風邪をひいてしまいますよ。ちょっとタオル…」 父親が奥のテーブルにいる母親らしい女性にその旨を知らせている。 「お父さん、大丈夫です。早く帰って着替えますので。。」 そんな問答を何度か繰り返し、 「ちょっと駅までコーチ送ってくるね。」 洋平が気を使っている。 「洋平、最近コーチがレッスン出来てないけど調子はどう?」 「マジOKっす!バリバリっすよ!」 よく分からない単語が並んでいるが調子は良さそうだ。 「コーチ、聞いてくださいよ!この前の試合で和馬に勝ったんですよ!6-3で!」 少し声が大きくなった洋平。和馬とは同じ武蔵野テニスアカデミーのジュニアでU12全国大会出場経験のある強者、クラブでは小学生の中でNo. 1の実力者である。 「和馬に!?凄いじゃん!」 「はい!その試合で自信ついたんです。それからはかなり調子いいです。」 ある程度、強さを身に付けている選手が今一つ勝てない要因はメンタルの弱さを克服出来ていないことがほとんどである。何かをきっかけにしてそれを打破することも多く、それらのほとんどは洋平のようにレベルの高い選手に勝つことの経験から自信をものにすることでステージを上げられる。 「もうすぐ選抜だね。本戦は?」 「微妙なところです。でも予選からでも絶対本戦入るんでそこまでは心配してないです。」 数ヶ月前の洋平に比べるとまるで別人のように自信を感じる。 「関東までは上がらないと次のシード取れないんで、死ぬ気で勝ちに行きますよ!」 「今の洋平なら大丈夫そうだな。次のレッスンは明日?」 「はい!明日、コーチは?」 何かを期待した洋平の目が栄一を覗いている。 「明日は午前はクラブでレッスン、午後は都内で練習なんだ。」 洋平の見開いた瞳が少し小さくなったのは無理もない。 栄一も一週間後に試合が予定されている。国内開催の下部大会であるがプロの仕事を全うする場が控えている。顔面直撃の事故から一ヶ月ほど経ち、月に1〜2大会の出場を予定するようになった。 「じゃあコーチも試合目前だから一緒ですね!」 「ああ。試合に出る時はコーチじゃなくてプロになるんだよ。」 「あっ、そうでした!!プロ、頑張ってくださいね!」 「おいおい。俺の心配の前に自分の心配をしろって。関東に上がれよ。」 「はい!絶対上がります!」 歳の差、レベルの差、大会の違い、プロとアマチュア… 栄一と洋平にはたくさんの違いがあるものの、立つ土俵は同じテニスコートであり、競うのは同じルールに基づいたテニス以外のナニモノでもない。 (いつか同じ土俵に立って、本気の勝負が出来るといいな) (いつか同じ大会に出て、本気の勝負してプロに勝ちたいな) 並べばまだまだ身長差が大きい二人が、それぞれの傘をさし歩く後ろ姿は仲良さそうな雰囲気を醸し出している。それは師弟の間柄と言うよりも友達、兄弟、ライバル、そんなもののように。。 東大和市駅の改札に着き、 「洋平に送ってもらうなんて、なんか申し訳ないな。でもありがとう。」 傘をひと回しして折り畳み、栄一が少し膝を曲げて洋平に顔を近づける。 「早く戻らないと食事が冷めちゃうぞ。」 栄一の表情は柔らかく、優しい言葉が洋平にはとても嬉しかった。 「はい。」 少し照れているような表情の洋平。 「コーチ、さっきのお店すっごく美味しいんですよ。今日はお父さんが出張から帰ってきたんで家族で来ました。」 「今度、彼女さんとかと一緒に来てください。牛肉の煮込みが最高に美味いです。」 すぐにただの偶然と理解したが、ついさっき彩の薦める店を今は洋平が私にアピールしている。それだけこの地域では評判の良い店のようだ。なんだか直ぐにでも行きたくなってきた。 券売機で新宿までの切符を買い、改札を通ると後ろこら洋平の声が響く。 「コーチ、今度またレッスンしてください。僕、結構強くなったんで!」 高い天井のせいもあるが洋平の声はかなり響き渡り、構内にいた人々全員が一斉に振り向いたほど。 栄一は右手を高く挙げて親指を立て、それに応えた。 「OK!」 洋平ほどの声にはならなかったが、栄一も周りの視線を気にすることなくそれははっきりとした口調だった。階段を上がり振り返れば、まだそこに手を振る洋平が、同じように手を振り返すと急いで店へと走り出した。。 この時間になると上り方面のホームには人影も少なく静かなものだ。聞こえるのは屋根から線路に滴り落ちる水の音くらい。 (さあ、新しい時間がいくつも始まる。プロテニスプレーヤーとして最前線への復帰、指導者として洋平をはじめ愛弟子ジュニア選手たちの大舞台参戦、そして彩との時間。。) ドキドキとワクワクがミックスアップされて少し戸惑う栄一。 (うん。) 小さく頷いた栄一の顔は無表情だが、清々しいものだった。
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