寓話「アライさん」

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寓話「アライさん」

9bfc3199-e0d6-418d-a03c-cf7b048c0244  アライグマを見ていた。かれこれ10分はたったと思う。  水あめを薄く溶かしたような小川の、苔むした石に腰掛けて、体のあちこちを一心不乱に洗っている。僕は彼の気を散らさないよう、そっと近づいて声をかけた。 「いったい、そこで、なにを洗っているの?」  アライグマは、首だけを僕にくるっと向けると、面倒くさそうに答えた。 「悪い心だよ」  まさかそんな答えが返ってくるとは、思ってもいなかった。さらにゆっくり近づく。トレッキングシューズの下で小枝が折れた。ポキポキ。その音は、拡散することなく湿った地面に吸い込まれてゆく。 「悪い心?」 「そうだよ。悪い心」 「アライさん、あっ、アライグマさんだと少し長いから、アライさんって呼ばせてもらうけど…… 僕は、そもそも悪い心なんて見たことないよ。悪い心はあるにはあるんだろうけど、そいつが、切符を買ったりコインランドリーで洗濯をしているのは、お目にかかったことがない」 「そりゃそうさ。だって悪い心は、いつもここにいて、僕らを操っているからね。フィクサーのようなものだと思う」  アライグマは、自分の胸のあたりを「ここ」と指差すと、今度は体全体を僕の方に向け、まっすぐこちらを見つめて云った。グレーとも茶色ともつかない体毛が水に濡れて、木漏れ日をやわらかく反射している。 「フィクサーか、なるほど。ところで、そのフィクサーとやらは上手く洗い流せそう?」 「それが、ちょっと不思議なんだ。アライグマは、モノを洗うことにかけてはすば抜けている。普通のクマやウサギなど、僕らの足元にもおよばない。言い換えると、洗いのプロなんだ。それなのに、かれこれ1時間こうしてゴシゴシやっても、ちっともきれいにならない。変化なし。その証拠に、僕は君のことをちょっと鬱陶しいやつ、と思ってる」 「それは、失礼。たしかに僕は邪魔者だ。もう帰るとするよ」 「ごめん。鬱陶しいは言いすぎた。そこにいなよ。急いでいないのなら、話し相手になってくれる? 本当は、いいかげん退屈してたところなんだ。それに、もし僕が君になにかをしてあげたいって思うようになったら、悪い心が少しずつきれいになってきた証拠だろ? リトマス試験紙みたいで悪いけど」 「フィクサーとかリトマス試験紙とか、アライさんは、なかなか面白いことを言うなあ。じゃあ、お言葉に甘えて少し見学させてもらうよ」  僕は、アライさんから2メートルほど離れた場所に平らな石を見つけると、腰を降ろした。 「アライさんは、コーヒー好き? インスタントだけど。よかったらごちそうする。もし苦手なら、紅茶とジャムもあるし」 「ありがとう。悪いけど、僕らは嗜好品全般を法律で禁じられているんだ。嗜好品は、悪い心の栄養源になるって考えらしい。僕は信じてないけどね」 「オーケー。じゃあ、ひとりでコーヒーをいただくことにする」  コッフェルのお湯が沸いても、僕がコーヒーを飲み干しても、アライさんはゴシゴシやっている。ついには、体の正面だけではなく、蔦を器用に使って背中まで洗い出した。その姿は仕事に疲れたサラリーマンが、ビジネスホテルの大浴場で「垢すり」をしているようにも見えて、僕は、アライさんがますます好きになった。 「アライさん、ちょっと僕の仮説を聞いてくれないかな?」 「仮説? うーん、かまわないけど、哲学みたいな話はごめんだよ。哲学は、アライグマをダメにするって、おばあちゃんからの教えなんだ」 「哲学だなんてそんな大それた話じゃない。アライさんの洗っているところを見ていて、ふと思っただけ」  アライさんは、なにか言いたげな顔をしていたけれど、僕は話を続けた。 「君は、悪い心を洗ってるって言ったよね。そして、そいつはなかなか洗い流せない、と。ということは…… ひょっとしたら、その悪い心と良い心は、どこかでつながっているんじゃないかな?」 「つながっている? それはつまり、ディーゼル機関車と貨物列車みたいなもの?」 「あー、いや、それとはちょっと違う。たとえば、U字磁石を思い出してみてくれ。あれにはプラスとマイナスがあって、どこからどこまでがプラスで、どこからどこまでがマイナスかは、だいたいはわかるけど、そのくっついている部分は、両方が入り混じっていてきっかり分けることができない」 「うん、たしかにそうだね。くっついてるところは、プラスなのかマイナスなのかもよくわからないし、空白地帯みたいなもので磁力も働かない」 「そうそう。まあ、U字磁石なら片方だけをゴシゴシしたら、なんとかなるかもしれないけれど心はもっと複雑で、良い心と悪い心は、ひとつに溶け合って区別がつかなくなっている。シャム双生児は知ってる? あんな感じ。つまり、ひとつを消し去ったら、心が丸ごと死んでしまう。そうだ、アライさん。ガムはどう?」  アライグマは、濡れていない頭のてっぺんで手を拭うと、ガムを受け取り、キラキラ光る包装紙をじっと見つめていた。もし、いま、木の実が芽吹いたら、その音さえ聞こえてきそうなくらいの静けさだ。アライグマは、ゆっくり口を開いた。「じゃあ……」 「仮に君の言う通り、片方だけを洗い流すことができないとしたら、悪い心は永遠にハンモックの上でミルクティーでも飲みながら、ゆらゆらしているのかい? それだと僕らはこれから先も、他人をねたんだり、憎んだりしながら、生きていかなければならないってこと? いじめや暴力や戦争や差別や、そういったうんざりするような出来事は、この世界から永遠になくならないと君は言いたいんだね」 「早い話は、そうだ」 「早い話? じゃあ、遅い話は? たとえば、心を丸ごと洗い流すとか……」 「丸ごと……。よし、アライさんの言う通り、それが仮にできたとしよう。いじめも差別も戦争もなくなるとは思う。それは、一見するととてもとても平和で穏やかな世界だ。けれども、悲しいと思うことも、かわいらしいと思うことも、美しいと思うことも、なくなるだろうなあ。そして、誰かを愛することもできなくなると思う。たとえるなら、プラスチックのような世界だ」 「どっちにしても、絶望だね」 「さあ、どうだろう。君はさっき、嗜好品は悪い心の栄養源だから法律で禁止されてるって言ったよね。それは僕も嘘っぱちだとは思うけど、それとは逆のことをしたらいいんじゃないか?」 「逆って?」 「うーん、上手く言えないけれど。ちょっとこれを見てくれ」  僕はデイパックのファスナーを開けると、文庫本にはさんであった一枚のモノクロームの写真を取り出した。「これを見て」 「遊園地かな? コーヒーカップに乗った女の人と男の子が、こっちを見て笑っている。おや、この麦藁帽子を被った少年は、ひょっとして君?」 「うん。その通り僕だ。場所は、正確には遊園地ではなく水族館。そして、この女性は僕の母親だ」 「なんだか楽しそうだね。こっちまでやさしい気分になるいい写真だと思う。でも、この写真と心に関係があるの?」 「上手く言えないけれど、僕はこの写真をやっと最近、まともに見られるようになった。母親をずうっと恨んでいたんだよ。詳しいことまで言えないけれど。でも、今はやっとまともに見ることができるようになった。母を許そうと思ったんだ。許そう、許せるって思うようになってから、急にこの写真が懐かしくて、とてもいとおしいものに思えるようになった。つまり……」 「そうか! なんとなくわかった。君にとってこの写真は、良い心の栄養源と言いたいんだな。そして、良い心を育てよう、と」 「うん、たぶんそう。大切なことは、良い心と悪い心は、そもそも混じりあってひとつになっているから、片方だけを取り除くことはできない。まず、この構造を知ることが大切だと思うんだ。その上で、良い心に栄養をあげて育てる。すると、相対的に悪い心はどんどん小さくなるだろ? 1と3、1と10、1と50、1と100、みたいに」 「相対的にか。なるほど。僕はフクロウがきらいなんだ。奴らは木の上からこちらをこっそり窺っている。そして、隙を見つけては音もなく急降下して獲物を横取りさ。そのフクロウも許せ、ということ?」 「急には無理だと思うよ。ただ、いまのアライさんみたく、俺はあいつが気に入らない、不幸になればいいのにって思ってる、そういう気持ちがあることを、だれにもそんな心があるんだってことを、まずはいったん認める。もっと言うなら……」 「もっと言うなら?」 「そういう醜い心も許すということかなあ……。これは、きれいごとじゃない。良い心と悪い心が共存していて、片方だけを引き剥がすことができないとしたら、どちらか一方を育てるしか道はない。それを本気でやろうとしたら、悪い心もいつかは許さなきゃならないだろ? 悪い心のことを憎い憎いと思い続ける、それ自体が悪い心なんだから」 「そういうことか……。ありがとう。君の話を聞くうちに、いくらゴシゴシしても洗い流せない理由が、なんとなくわかった」  ひと呼吸おくとアライさんは、職員室に呼び出された小学生のようなかしこまった口調で話を続けた。 「それと、これはお礼というわけではないけれど、僕は君になにかしてあげたいんだ。洗濯を手伝ってもいいし、食器洗いだってお手の物だ。なんせ僕はアライグマだから」 「ありがとう。アライさん。その好意だけで十分さ。僕は、洗濯も食器洗いも苦じゃないんだ。そうだ、今度僕がここに来ることがあったら、記念写真を撮ろう。君の家族も一緒に」  アライグマと僕は、このあと少しだけ話をして、別れた。それからはあの森へは行っていない。  今日もアライさんは、小川でプラムや桑の実をゴシゴシしているに違いない。そして彼のかたわらにはフクロウがいて、よい話し相手になっていることだろう。  僕は、新聞を読み終わると、ヘッドフォンをかけた。すぐにブラックバードの前奏が始まる。母が昔、いつも聴いていたビートルズのナンバーだ。目を閉じる。あの夏の水族館に吹いていた懐かしくてやさしい風に、僕はすっぽりと包まれていた。
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