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前編
その日も、最悪な一日だった。
(ちくしょう……ちくしょう……)
私はセーターの袖口で右の頬を押さえながら歩く。
鼻頭を赤く染め、涙を浮かべながら歩く。夕焼け色に染まった、大阪ミナミの繁華街。戎橋。グリコの看板。
右手にしっとりとした重みを感じて、立ち止まる。見ると、白いセーターの袖口が椿のように赤く染まっていた。
殴られた頬が痛む。流血は少しマシになってきているようだが、それでもまだ心臓がほっぺたにあるみたいに熱く、ズキズキ痛んだ。
血をよく吸ったセーターを見て、すれ違った通行人は驚いたように振り返る。心配するように、あるいは面白がるように。一瞬、私を見た彼らは、次の瞬間には一様にすぐさま慌てて手元のスマートフォンに目を落とした。
私は反対の袖口で生々しい頬の傷を押さえる。生温かい流血の感触が頬を伝った。
他人に気にされないのは、むしろ私には都合がよかった。他人に憐れまれるほど、情けの無いことはないと思った。今頃、彼らはSNSで私のことを「かわいそう」だとか「ヤバい」とか呟いていることだろうが、そんなことはどうでもいい。かわいそうな人たち。いちいち自分が何をしたか、何を思ったか他人に知ってもらわないと、肯定してもらわないと生きていけない人たち。孤独の重みに耐えられない人たち。繋がったふりをして、本当は誰とも繋がっていないとも知らずに。
それでも、私よりはかわいそうじゃない。
私よりは孤独じゃない。
ふと目をあげると、大勢の人の流れが私を遠ざけて歩くようなドーナツ型の空洞ができていた。川の水が大きな石を避けていくように。小魚の群れがプラスチックのゴミを避けて泳ぐように。
たくさんの目が私を見る。私を取り囲んだ彼らの目だけが、暗闇に光るようにギラギラして見える。
こんなにたくさん人がいるのに、私の見方は誰一人もいない。誰も助けてはくれない。
ただ頬が、燃えるように痛い。
ちくしょう……。こっち見んなよ。憐れんでんじゃねえよ……。
痛みでジンジンする頬を押さえながら、反対の手で涙をぬぐった。綺麗にぬぐったはずなのに、ふいに涙が一滴、剥き出しの膝に落ちた。短いスカートからのびる、白い脚。冷たい感覚に目を落とすと、右の膝は擦り傷で血まみれだった。
ああ、そうか。こんなで歩いてたから、みんな私のこと見てきたんだ。
「女の子は身体に傷なんか作っちゃだめだよ?」と笑う、お父さんを思い出す。本当のお父さんじゃない。私の空想が創り出した、私を守ってくれる、私だけのお父さん。
本当のお父さんは私が生まれる直前に亡くなった。交通事故だったらしい。だから私は、見たことも、会ったこともないし、顔も知らない。
私は自分で想像した存在もしない優しいお父さんしか知らない。つらいとき、苦しいとき、いつも慰めてくれた、私だけのお父さん。
ごめんね、お父さん。私また、傷、作っちゃった……。
本当のお父さんだって、きっとこんなにも素敵で、優しくて、力強い人だったんだと空想する。
そして、私を心から愛していた、と。
愛してくれていた、と……。
不意に、胃袋が震えるような感覚があって、顔がどんどん熱くなる。うねるような感情がどんどん押し寄せてくるのが分かった。腹の底から湧き上がってくる、嗚咽にも似た感情の嵐。それらは私の目の位置まで上がって、涙になってあふれ出すに違いない。
私は慌てて、暗い路地裏を探した。
お父さん。お父さん。
たすけて、おとうさん。
しかし、そんなものはどこにも存在しなかった。優しい父親も、暗い路地裏も。
どこもかしこも店が建ち並び、滑り込むすき間などどこにもないのだ。街にまで突っぱねられるような疎外感。眩いネオンが私という異物をサーチライトのように浮き彫りにする。私はどこか敵に追われているような感覚に陥って、一刻も早くここから立ち去らなければという気持ちになった。
ようやく見つけた細い路地裏に、迷わず滑り込んだ。暗闇に逃げ込んだのは、ここなら誰にも見つからず思い切り泣けると思ったから。壁一面にチラシが貼られた、暗い細道。求人のチラシ、それからピンクのチラシ、色とりどりの汚いモザイクアート。
この鬱屈した気持ちをなんと言い表せばいいのだろう。私は血に染まったセーターの袖口をビシャりと、チラシが作ったモザイクアートに叩きつけた。そのまま、壁に腕を引きずって、しばらく歩いてみる。赤いインクがすぅっと伸びて、やがて新しい傷跡が出来たように血が滴り始めた。
この壁は私と同じだ。両手いっぱいに要らないものを張り付けられて、傷つけられて、血を流す。
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