《皆無》

1/1
前へ
/14ページ
次へ

《皆無》

翌日も、真夜中に変わらぬ姿で菊之助の元へと訪れた男。 あんなことがあったのに… 「貴方は旦那様ではなかったのですね」 出来るだけ、いつも通りに話しかける。 「……」 目を合わせず、俯いたまま、いつもの作業を開始する男。 「もしかして、言葉が喋れない?」 「……」 作業をしながらも、僅かに首を振り答えてしまう。 「なら、貴方の声が聴きたい」 「貴方のお名前は?」 「……」 「教えてください」 「僕は貴方をなんとお呼びしたら…」 「……」 「呼びたいのです、貴方の名を」 手ぬぐいを持つ手に触れながら願う… 着物の裾からちらりと見えたその手首の内側には、大きな切り傷が… 命を断とうとした痕が痛々しく見えた。 「貴方は一体…、知りたいのです」 「……」 瞳を合わせず、頑なに無視を続ける。 「……そんなに、僕がお嫌いですか?」 だんだんと悲しくなり… ほろりと涙が零れ落ちる。 そんな様子を見た男は… 「……、菊…」 躊躇いながらも、涙の雫をそっと拭い、瞳を重ね優しくその名を呼んだ。 「っ、」 はじめて名を呼ばれ、その声に…どきりと胸が鳴る。 「……、俺は…言葉を発してはならないんだ、生まれてきてはならぬ存在だから」 そっと、頰被りを取り、素顔を晒しながら伝える。 「そんなことは…」 「俺は、双子で…後から生まれた…」 ただ、それだけで…運命の歯車は狂ってしまった。 「……」 「畜生腹は家を潰す…この地域に根強くある迷信、母様を、お家を守る為、俺は…生まれなかったことにされた」 畜生のように子をたくさん産むことを、…双子を許さない迷信のため…。 「っ…」 「俺の名は皆無(かいむ)…何もないと言う意味だ」 「そんな、」 ふるふると首を横に振る。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

317人が本棚に入れています
本棚に追加