雲雀は太陽へ翔ける

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「奴が消えた! 太陽の奴が! ひとに金を借りておきながら、返すこともなく消えるなんて、あいつはどこまで不誠実なやつなんだ!」  ……うるさいなあ。朝っぱらから、ひとの部屋の前でわめいてるんじゃあない……魚になって空を泳ぐ奇妙な夢から目覚めちゃったじゃないか。 「今度という今度は許さない! 今度見つけたら絶対に!」  いつまで騒がれても迷惑だ。仕方がない、出てやるか。  軋む戸の音と共に、甲高い叫び声が部屋になだれ込む。扉の影から、握りこぶしに棒切れの手足をつけたようなずんぐりとしたスーツ姿の男が現れる。扉の開く音に驚いたのか、すっかり静まった男に話しかけた。 「どうしたんだ? まだ六時だろう。朝から騒いで、迷惑じゃないか」 「誰だ! ……太陽じゃないのか。隣に、太陽の野郎が住んでいるだろう! どこに行ったか知らないのか!」  一言くらい謝ったらどうなんだ、と口をつきそうになったが、無理に喉の奥に押し込んだ。 「太陽ね。住んじゃいるさ。で、なんだ? 太陽が消えたんだって?」 「ああ! それでどこ行ったか、知ってるか?」  余りに横柄な男だ……少しばかり意地悪をしてやろうか。 「ただの隣人だが、その情報を誰とも知らないあんたには教えたくはないね。名前くらいは名乗ったらどうだ?」 「……モグラ、でいいだろう。教えてくんな」 「知らないねえ……で、あんたの名前、誰だって?」 「あんたも名乗っちゃいないんだ。モグラと呼ぶ名前ができた、それだけで十分だろう?」 「私の名は雲雀さ」 「名前なんか聞いちゃいねえよ!」  ……面白くもない反応ばかりだった。諦めて、真面目に取り合うことにした。 「……まあ、そうだな。教えてやろうか」 「ハナからそうやって教えてくれりゃいいんだよ」 「まあ、実のところ私はなんも聞いちゃいないんだ」 「……ならいちいち名前聞いたりするんじゃねえよ! 紛らわしい!」 「さっきも知らないといったろう?……まあ私はなんも聞いちゃいないが、太陽を探しているのかい?」 「ああ! さっきも言ったが金を借りたまま逃げたんだよ! ……ん、言ってなかったかな……」 「一人で騒いでいた時に聞こえたさ……太陽を探しているのなら、奴の家に入って、日誌でも読んでみるといいさ。何か書いてるかもしれない」 「日誌? 奴はそんなもの書いてたのかい? 初めて聞いたが……」 「奴自身の口から聞いたから間違いないさ。まあだいぶ前のことだからまだ続いてるか分からんがね……」 「そうか! なら、ちょいとお邪魔するとするかな……」 「……たしかに家に入ればいいとは言ったが、どうやって入るんだ? 合鍵を持ってる間柄でもなさそうに見えるが」 「奴自身が、郵便受けに紐付きの鍵を入れていると言っていたんだ。それで紐の端を郵便受けの端から少し出してるって……」 「それは確かかい?」 「奴自身が言っていたさ……まあ、だいぶ前のことだから、分からんがねえ……ほぅら、あったろう?」  意趣返しだと言わんばかり口を醜くゆがませてるんじゃない……こっちを見るな……つい目をそらしてしまったのが負けたようで悔しい…… 「さぁ、開いたよ……」  モグラの嫌味たらしい声が聞こえる。その声の影で、扉が鳴き声を上げた。 「うん……実に質素なもんだ……食卓とラジカセしかないじゃないか……おい、お前は入ってこないのかい?」 「たかが隣人に入られたと知ったら太陽だって嫌な思いするだろう?」 「あいつはそんなこと気にするような輩じゃないと思うがね……まあいい」  次第次第に足音が遠のいていく。モグラが部屋に入ったようだ。 「よくもまあ、他人の家に躊躇なく入れるものだな……それも主のいない死んだ部屋に……」 「何か言ったか?」 「なんでもないさ……ところで日誌はあったかい?」 「いや、それらしいものは……ああ! あったあった! 今持っていくよ」  声と共に足音が近づいてくる。扉がまた、鳴き声を上げた。手の中に、小さな、それでもしっかりと装丁された本が一冊あった。 「何も持ってこなくとも……」 「いやさ、あんたがこいつのこと教えてくれなきゃ見つけられなかったんだ。手柄配分みたいなものだよ」 「そう掲げなくても見えているよ。しかし、借金話はあんたと太陽の問題だろう。私に見る権利はないね」 「そういうなよ。人の日誌を、当人に内緒で見る……なんて背徳感の溢れる行為だ。お前も、本心では見たいはずだね」 「……まあ、あんたが見せたいようだから仕方ない。見てやろうじゃないか」 「その責任をすべて俺にかぶせる物言いは……いや、いいさ。若干気に障ったが、許そう。さあ読もうか」 「……どうも、普通の日誌のようだね……面白みのない……」 「そうだな。それでモグラよ、太陽の行く先は書いてあったかい?」 「いいや……最後の更新が四日前……最後に顔見たのが同じく四日前で……でも特に何もないね」 「私にも見せてくれよ……ふむ……」  モグラの言うように、平坦な日々を記す、何の意味があるのかもわからない日誌だ……しかし、どこか変じゃないか?二月二十六日……野良猫に餌をやった……捕まえようとしたが逃げられた……今度は捕まえる……そういえば部屋の前で猫が鳴いていたな。ちょうど四日前だったか……その声も、それ以来聞いた覚えがない。 「これは、暗号じゃないかね。モグラさん」 「なに? どういうことだ?」  そう答えを急かすな……猫が、彼の行方を知っているのだろうか……二月二十六……部屋には卓とラジカセだけ……ラジカセか、天気予報でも聞いていたのか……そういえば翌日、去年も一昨年もなかった春一番が吹いたっけ……たしか例年よりも早いって……その翌日は季節外れの雪が降っていた……何か関係があるのか…… 「春一番は、どっちに吹いたっけな……」 「春一番? 春一番なら、南から北に吹くものだろう」 「じゃあ、北かな……」  ここから北……広い平原と山のあるほうだ……しかし、どういうわけだろう。なぜ、太陽の失踪が、私の興味をこれほど引くのだろう……まるで、帰属する先を求めているようで、何か滑稽な気さえする……でも、探さずにはいられない……太陽こそが、私の存在を証明するのだろう……目の前に居座るこのモグラよりも、所在の知れない太陽のほうがずっと、私の存在の助けになるのだ…… 「北がどうかしたのか? 太陽の奴が北にいるってことか?」 「ああ。間違いないはずだ」 「説明してくれよ。どこをどう読んだ?」 「今から説明するさ。よぉく聞き……猫だ! 声がした!」  猫の鳴き声が、後ろから聞こえた気がして振り返った。私が探していることに気づいて逃げたようだが、曲がり角のコンクリ塀に消える黒い尻尾をたしかに見つけた! あの態度は間違いなく関係している! 「ああ、猫だっているさ。それで、太陽はどうした?」 「お前に付き合ってる暇はない、あの猫を捕まえなくちゃあならないんだ! それが太陽につながる! だから借金のこともいったん私に任せてくれ! わかったな!」  答えは必要なかった。後ろでモグラのわめく声が聞こえるが、もうあいつの問題じゃないんだ。関係ない。それよりも今は、あの猫のことだけ考えるんだ。  猫はあっけなく見つかった。というよりも、私を曲がり角の先で待っていたのだ。モグラの前で私と接触するのが、どうも嫌だったらしい。明らかに意思をもって私だけと会ったのだ……そういえば昔、猫と事務所の関係を見抜いた無職の男の話を読んだっけ……猫が足に顔をこすりつけながらぐるぐると回る。まるで私のことを知っていたかのように、妙に人懐こい……ほら、抱き上げても何の抵抗もしない……猫が右に首を回す。つられて私も右を見ると、小路の先に小さな駅が見えた。 「電車に乗ればいいのか?」と聞くと、何も言わずに尻尾を振ってこたえた。この猫が太陽へいざなう案内人なのか? だとすれば、どうやら太陽は電車に乗っていったようだ。私も猫に従い彼を追おう。  駅のホームについてもう一時間ほどが経つ。その間に何度か電車が来るたび「これに乗るのか?」と聞いても猫はなんの合図もくれなかった。まるで見える全てへの興味を失ったようにうつろにしている……今更、太陽探しに協力する気がなくなったなんて、言わせない……軽く猫の首に手をかけると、途端に尻尾を立ててウンニャウと鳴いて私を見上げてくる。線路を見るとちょうど七本目の電車がホームに止まったところだった。「これに乗ればいいのか?」と聞けば、また無言で尻尾を振る。電車の警笛に急かされながら、車中に入った。  何駅か過ぎて……人は誰も乗ってこない……山を越えて……また何駅か過ぎて……誰も乗ってこない……また何駅か過ぎたところで、猫が私の腕に爪を立てたので電車を降りた。    私が降りた途端に、せわしなく電車が走り出す。高原の駅のようだった。辺りを見回す……駅舎……線路……電線……その柱……それらと、ついさっき地平に消えた電車以外は、原地しかなかった。こんな場所に何の必要があって駅を建てたんだか……普通、駅というのは人の住むところに作るんじゃないのか……あるいは、経済の中心地や行楽地……いずれにしても人の往来に立てるんじゃないのか……なんだってこんなところに駅がぽつねんとしているんだ……。この駅に降りたのも私一人と猫だけだったようだ。もっとも私しか乗ってないのだから当然だが……。猫がまた、ウンニャウと鳴く。今度は爪も出していた。 「どうしたんだ? 何が言いたい?」猫は答えないまま、私の腹を蹴飛ばして腕から離れ、野原の茂みに消えていった。どうやら案内は終わりらしい……ここが、彼の目的地なのか……太陽はここに……見回すと、駅舎にある足の根元が赤さびた椅子の上に、一冊の本が置いてある。近寄って手に取る。ちょうどモグラが太陽の部屋から持ってきた日誌と同じ装丁、間違いなく太陽のものだった。 この手記を読んでいるのは、モグラ君か、彼に頼まれた人か……あるいは、ただ単に電車待ちの暇つぶしに手に取っただけの旅人か。 いずれにしても読んでいる君の存在を、僕は知っている。今もそこの駅舎の出口の物陰からジと見ているからね。  ……言われてみれば視線を感じる……たしかに、見られているような気がする……いや、気のせいかもしれないが……でももし見られてるとすれば……私が気づいたことに気取られちゃいけない気がする……長旅で疲れた旅人が首を回して疲れを取るように、その真似をして、肩を上下に動かして、肩を上げるその瞬間に……盗むように目を走らせる……誰もいない……見損じたのだろうか……もう一度……やはりいない……手記を読もう……   今もしかすると君は、自然を装って、なおかつ僕に僕を探してることを気づかせないように駅舎の出口を覗いたんじゃないかい? いや、それ自体はどうでもいいんだ。僕はそこにいないから、安心して好きなだけ周囲を見回すといい。 君が僕を探しているなら、その高原……今君のいる駅舎から北を見て欲しい。おそらく、森が広がっていると思う。その森に入って少し進むと大きな洞のあるヒノキがあるんだ……サワラだったかな……とりあえず、そこの洞に来るといい……駅舎から、真直ぐに北へ……  バカにしやがって! クソ、あんなのに引っかかった自分にも腹が立つ!  ……腹を立てていても仕方がない。若干胡散臭い気もするが、手記の通りに北にあるヒノキを目指すか……それにしても、なぜ私の取る行動を知った風な文章を書けるんだ……まるで、見てから書いたかのようだ……なにか、不愉快で不安だ……本当に、奴を追っていていいのか……?  結局、太陽の指示通りに来てしまったが……これが、そのヒノキか……ずいぶんと大きいな。私十人が手を結んでぐるりと取り囲んでも、まだ足りないんじゃないか……洞もまさにがらんどうとして……ん、洞の中にまた本……同じ装丁だ、また、太陽の残した手記…… 律儀にここまで来てくれるなんて、ずいぶんとお人よしなんだな。 モグラ君はそこまで気のいいひとじゃないし、暇つぶしの旅人がここまで来ることもない。君はモグラ君の代わりに借金の取り立てに来たんだね。  間違っちゃいないが、モグラの借金はもうどうでもいいんだ。いまはすでに、私の好奇心だけが重要になっている。ズレたことを言うあたり、こいつもまだ私を理解しているわけじゃないようだ。妙な不安も、少しだけ薄れたような気がする。 まあ、そんなことは、どうでもいいことだね。悪いが、少しばかり 君には会えそうにないんだ。申し訳ないがまだ少し待っていてもらいたい。 それに、そろそろ雨も降るころじゃないか?その洞で休んでおいてくれ。雨宿りが終わるころには、会えるようになっているかもしれない。  雨だと? こんな晴れ空で雨が降るわけない! しかし、太陽の居場所が分からないな……次はどこへ行けばいいんだ? ……仕方がない。木の周りを回りながら周囲を観察するとする……  ……二十六週目か……とくに何も発見はないが……ん、頭に冷たい物……見上げれば鈍色の空……雨か? しかしさっきまで晴れて……まずい! 本格的に降り出したようだ。早くがらんどうに……あまり濡れずに済んでよかった。このまま、雨が止むのを待とうか。しかし、疲れたのか……異様に眠い……  体が痛い。こんな場所で座ったまま寝るからだ、阿呆め。……雨も止んだのか。外に出るとしよう。……ぬかるんだ土の感触が心地いい。もういちど、木の周りを回って……ちょうど、洞の反対あたりか。真新しい本が袋に入って……さっきはなかったはずだ……雨の間に置いたのか? ゆっくり休めたかい? 大口開けて寝ていたが、ずいぶんと疲れているようだね。君が起きなかったから、用件も済ませられなかったね。残念だ。 しかし、僕も鬼じゃないから、今度こそ君に会ってあげようかな。洞を出てすぐ右に、ちょうど木が生えてない所があるだろう? いわゆる獣道って奴なんだが、そいつを道なりに来れば、小さな小屋がある……一山超える必要があるから、少し遠いが…… どうしても会いたければそこで待っていてはくれないか。  私が寝ている間に、この木に来たって言うのか。そしてそれに気づかずに寝ていたと……なんて愚かなんだ、私は!  しかし、太陽自ら会ってくれる場所を指定してくれたんだ。行く先もなく途方に暮れていたんだから、とてもありがたい……で、洞から出て右……ここか……このまま進めば……行こう……    ここが、彼の言った小屋か。林業者の休憩所のようだな。ベッドがあって、上にやかんを乗せたストーブもある……石油もあるな。食糧備蓄も……。そして、埃にまみれた机の上に、また太陽の本があった。 やはり、僕に会いたいようだ。ここまでやってくるなんて、ずいぶんと変わりものなんだね。僕はうれしいよ。 でも、まだ会えないんだ。気を長く待っていて欲しい。 それと、もう日が暮れるころだろう?今日はそこで寝るといい。もし雪が降っても、そこにはやり過ごすだけの備蓄もある。自由に使ってくれて構わない。  いますぐにでも、太陽に会いたいものだ。居場所を教えてくれさえすれば、奴が来れないというなら、私から出向いたっていいというのに。それに、雪が降ったらと言ったか?予報では雪なんて降らなかったはずだが……  まあ、いい。たしかに日も暮れ始めたようだ。そこらでカラスの声が聞こえる。奴の言う通り、ここで夜を明かすとしよう……  よく寝た。しかし昨夜はずいぶん寒かったな……まるで冬が戻ってきたように……布団から出ると一層寒い……ストーブを焚くか……それにしても朝だというのに外が暗いな……いくつか窓があったはずだが、まるで月夜の暗さだ……外に出て空を……扉が重い……わずかに開いた扉の隙間から雪がなだれこみ同時に扉が閉まる……雪……雪だって! そんな予定なかったはずだ! もう三月だぞ!  ……しかし、現実に降っている……積もっているんだ、太陽の言う通りだった。太陽はこれを予期していたのか。……太陽の思う通りに、事が運んでいるな……昨日は雨が降って、今度は雪だと……まるで預言書のように……。ちょうどその予言書が、机の上にまた置いてある。昨日置いたまま、本のすぐ横が、埃にまみれたまま……そういえば、昨日はあのページしか読んでいない。もしかしたら、以降のページにも言葉が記されているかもしれない……ほら、ずいぶん後ろのほうに書いてあった。 昨日はずいぶん眠れたろう?僕の見立てでは初めのほうの数ページしか見ないで直ぐに本を閉じて眠って、起きたら雪が降っていて外に出れないその暇つぶしにまたこの本を開いた、といったところだろう? それか、僕があまりに君の行動を予測しているから、戸惑ってこの手記に細工でもあると思ったのかね……  私の行動を予測している? お前が予想してるのは、いつも天気だけじゃないか。雨が降ることなんて、知識あるものが気象図を見れば一目瞭然だろう? それに雪はある種の賭けに過ぎない。雪が降れば、お前の言葉が正になってしまい、降らなかったとしても、「雪が降ったとしても」なんて曖昧な言葉は戯言に取ってしまう。それが人間だ。賭けですらない、自分の思考を常日頃から覗いていれば分かることじゃないか! それにお前は私に指示を重ねることで思考の方向性をそいでいた。予測なんて、ありえないんだ!  ……クソ! 腹立たしい! 俺が眠ったのだって、最後まで読まずに眠ったことだって、偶然だ! だいたい、たまたまページを見つけさせることができただけで、なんだってそんな強気になれるんだ! どうせほかのページにももっと書いてあるんだろう、さっき見つけられなかっただけで! ……ほら見たことか、やはり一番後ろのページに書いてるじゃないか! そう腹を立てても、無駄に体力を消耗するだけだよ……少しは落ち着いたらどうだ? ストーブの上のやかんが沸いているころだ。お湯でも一杯飲んだらいい。 ……もしかしたら、私がまた君を見てると、そう疑っているのかね……まあ、違うとは言わないでおこう。追う側がいつまでも一方的に追う側でいられるとは、限らないだろう? たまには、追われてみるというのもいいんじゃないか?  ……ふざけるな! ……私が……疑ってなんて! ……なんで太陽なんかにこんなに驚かせられなきゃいけないんだ! クソ! この異様に早い心拍すらも奴の思索の中だ! ……ここはもう、太陽の手中だ……そりゃそうだ、奴の言う通りに、私の意志で進んできたのだから……隠れ場も人も多い町中から誰の目もない平原の木の洞に誘われて……次は山を越えた先の掘っ立て小屋だ……しかも、外から雪の鍵を掛けられた監獄……しかもその雪が、そのまま逃亡を見張る監視カメラにもなっているんだ……逃げ道がどんどん消されている……まるきり罠にかけられているじゃないか!  ……そもそも、なんで私はこいつを追っているんだ……モグラの借金を代わりに取り立てに……じゃあモグラが嘘をついて太陽と共に私を罠に……モグラもあいつの仲間なのか……? いや、私が自ら探すと言い出したはずだ……しかし、あの昨日の朝からの一連が、すべてあいつらの計算づくの作戦通りだと……私の考えや行動すらも予測できるのなら……信じられない! ……しかし私は現にここにいるじゃないか……出口のない小屋に……  ……見る側の優位が、覆ったのなら……もう、ここで待っていたくはない……そんなの売れ残れば殺処分になることを知ってるペットショップの老犬だ……扉を閉じてる鍵なんて、壊してしまえばいい……その音も雪が吸ってくれるさ……早く、離れなきゃ……雪も降って視界も悪いんだ……小屋のすぐそばで監視されていても逃げ切れるかも……足跡だって、もしかしたら、降る雪自身が消してくれるかもしれない……  ……さあ、扉は開いた! カギは壊れた! いますぐに遠くへ!  ……出口のすぐ前の雪に、足跡がある……太陽のものか? これは……もしかすれば、一度翻った天秤を、もう一度僕のほうに戻せるかもしれない。それも、振り切れるほど大きく……この足跡を追えば、太陽の住処だ……あいつはまだ、私が小屋から出たことを知らない……この雪と木の檻の中で閉じこもってると思っているはずだ……いまなら一方的に見ることの優位性を取り戻せるんだ……追うんだ……そうだ、この雪の中逃げたって奴と同じに足跡が残りすぐに見つかる……雪がいつまで降るとは限らないんだ……そうなればいずれ太陽も私にたどり着く……また、見られるだけだ……それに、もっと深い監獄へ閉じ込められるかもしれない……今は追うしかない……もう一度優位に立たねば……    もう二時間は歩いたんじゃないか……雪道はこたえるが、あいつの住処はまだなのか……足跡の先に何か落ちている……異様に雪がへこんでるんだ、何かがあそこに……手記だ……手記が置いてある……そして、そのすぐ手前で、足跡が消えている……また、奴を見失ったのか? この雪の世界で足跡を残さずにどこへ……いまは奴は後でいい……とりあえず、先に手記だ……行く先が記されているかもしれない…… キミを見ているよ。今までさんざん追い掛け回してくれた、そのお礼にね。君は安心して、僕らに見られておいてくれ。  どこかから視線を感じる……もう昨日のように、気取られることを気にしている場合ではない……それに、ひどく嫌な感じだ……もう、逃げ場なんてないんじゃないのか……四方に雪と、無数の木だ……奴を追うばかりで、道を覚えてなんて来ていない……足跡も、すでに遠くのものはかき消されているはずだ……あの小屋にたどり着くことすらできないだろう……この雪の世界で、どれほど生きていられる……いつ止むとも分からない雪に体温を奪われて、次第に肌も白く……雪との境目も分からないほど白くなって、いつか雪と同じだけ冷たくなっていく……そんな想像してなんになるんだ……生きるんだ、あいつにすがってでも……それでも、足元を見られてはいけない……強気でいかなければ…… 「どこだ! 太陽! いるのは知っているんだ! 出てこい!」  声が空しく消えていく……ガサリと音が聞こえた! ……振り向けばなんだ、ただの獣だ……あっちへいけ…… 「太陽! 借金なら私が肩代わりしたっていい! モグラに会いづらいなら、私が仲介人になろう! 出てきてくれ!」  自然の雪はまさしく消音器なんだろう……もしや、一メートル先にも私の声は届いてないんじゃないか……妙に不安だ……雪の触れていない心すら、どんどん冷えていくのを感じる…… 「聞こえてるだろう! 太陽よ! 出てこなくたっていい! 聞こえてたら答えてくれよ!」  ……やはり、聞こえてないのだろうか……嘘でも幻聴でもいいんだ……答えてくれ…… 「太陽! 太陽! 太陽! ……助けてくれよ! 太陽! ……太陽…………」  もう、帰り道は、ない……私の足跡も……奴の足跡ともはや変わらない……全てが私を迷路へいざなう……始まりも目的地も迷路の中心にある、出口のない迷路……もはや、太陽以外に、私の道しるべはないのだ……その道しるべすらも、私をどう騙そうかと画策しているんだ…… 「太陽……太陽…………太陽……………………クソ!」  足元だけを見て走り出した。靴の中が雪で埋まる。雪に交じった小石が足に刺さる痛みもあるが、そんなのは気にもならなかった。唯一気になるのは、私に穴をあけるほど見つめる、奴の視線だった。思えば、小屋の中で見られていると思った瞬間に私は太陽に負けたのだろう。見られていることを感じてしまえば、もう戻ることはできない。視線から逃げることはできないんだ。どれほど逃げても、視線は常に付きまとったままで、いつまでも解放されることはない。どこまで走ったが、どうしようもなかった。 「クソ……ふざけやがって! 太陽! いつまで追ってくるんだ! もういいだろ! 許してくれよ!」  いつの間にか雪は止んでいる。雲も晴れたのか、雪の表面はガラスの破片が撒かれたかのようにきらめいていた。……もう走りつかれた。足が積もった雪に突き刺さったまま、ビクリとも動かない。苦しさから空を仰げば、先ほどまでの雪が嘘に思えるほどの青空と、そのだだ広い青空の中心に、寂し気な一つの光源がポツリと浮かんでいるのが見えた。無数のハリを束ねたような光の玉が、私の目になだれ込んでくる。
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