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さっきまでの沈んだ雰囲気から、たぶん俺を気遣って明るい声を投げかけてくれた。結局、俺は小山田に気を遣わせただけで。
「わあ、小山田くん、ピアノ弾けるの?」
「ん。今度俺のピアノで歌って、仁木」
俺はさらに恥ずかしさで今すぐこの場で溶けて消えてしまいたかった。
「きゃーっ、素敵すぎ! 絶対見たい」
横から剛田が俺の腕をどしんと叩いた。
「仁木、俺ら出る幕ないなァ」
にやっと笑って、俺と小山田を眺めて見ている。
「俺………ト、トイレ行ってくる」
一時凌ぎでもその場から逃げだすことに決めた。廊下へと出ると変な汗が浮かんでくる。トイレまで迷路のような、ドアが並ぶ廊下を歩く。
一人になると、もうこのまま帰ってしまいたい思いに心が駆られてしまう。
そうだ、帰ってしまおうかな――
小山田もちょっとの間は沈んでいたみたいだけど、もう大丈夫そうには見えた。
だいたい俺がいたところで、反対に気を遣わせてしまっただけで。
小山田とこんな場所に一緒にいること自体、彼の気まぐれで、とても分不相応なことに思えてきた。
「そうだ、そうしよう」
俺は独りごちて、トイレから出て、意を決した。
「あッ」
大きく足を踏み出して、すぐそこに立っていた人影にぶつかりそうになって、慌てて避けた。
「すみません」
「仁木くん」
「え……」
良く見ると、後ろ手に手を組んで、壁際に立っていたのは、聖マリア女学院の制服の、ショートボブの女の子だった。
さっきまでカラオケルームにいたはずなのに。
「あ……今から部屋に帰るの?」
そっと訊いたけど答えはなくて、じっと睫毛の長い瞳で、上目遣いで俺を見上げている。背が低いコなのだ。
「あのね」
黒目がちの瞳を瞬かせる。
「あのね――あの、すごく歌うまいんだね。格好良かった――仁木くんて大人で」
そう一生懸命に言う姿に、突っ立ったまま、うまく返事も思いつかない俺はまるででくのぼうに違いない。
「ライン交換しない?」
小さく言う声に、はにかむような微笑はどこか頼りなくて、身体も小さくて、普通の男なら守ってあげたいと思うんだろう。
「えっと……」
彼女は俺に見せるように、スマホを取り出して差し出す。
「あの、これ」
すごく可愛い声だ。ふっと頭の片隅で、瑠奈のほうがずっともっと可愛いんだけど、などと思い浮かんでしまい、急いで掻き消した。
「私じゃダメかな」
「あの――そうじゃ、なくて……」
「私タイプじゃないかな?子どもっぽいってよく言われるし――仁木くんはもっと大人っぽい子のほうが良いのかな」
「いや、そうじゃなくて――」
伏せられた瞳は不安気に揺れているようで、俺はフォローできるような言葉を探した。
どうにも彼女に快く引いてもらうような、上手い台詞なんて何も浮かんで来ない。
俺は変な汗が流れ落ちていくのを感じながら、俺はひらすら頭を巡らせた。
「というか、俺は、あの……」
好きなのは女の子じゃないんだ、などとこの場で言ってどうするんだ。どうしようもない。
眼鏡をかけなおして、何かさらに続けないと、と舌で唇を湿した。
その時だった。
「仁木」
降りかかって来た声に、はっと顔を上げた。
廊下の先に小山田が腕を組んで壁にもたれかかって立っていた。
「何してんの?」
ショートボブの彼女はさっとスマホをなおすと、頬を赤らめて、小山田のそばを通り抜けて、部屋のほうへと足早に去って行ってしまった。
「あ……」
何か傷つけてしまったかもしれない、と気になって追いかけようとしたところを、小山田の掌が、ぐいと俺の腕を引っ張って止めた。
「邪魔した?」
くっきりとした二重瞼の瞳が、俺を見ていた。
小山田のすらりとした長身がすぐそばにあって、俺の腕をつかんでいて、その腕から頬までが熱くなってくる。
「彼女タイプだった?」
俺は力なく首を横に振った。タイプなら、今まさに目の前にいる。
俺はどっと疲れが押し寄せてきて、とりあえず彼女とのやりとりは小山田によって助けられたんだとわかった。
「ありがとう……」
「汗かいてるよ」
慌てて掌で頬をぬぐった。
「仁木っておもしろい」
「そ……う?」
「普段一人でいてクールそうな顔してるけど、こうやって付き合ってみるとそうでもないんだね。それにさっきの、俺の代わりに歌ってくれたんだろ?」
「……」
答えは言えない。まるで俺の想いが零れ落ちてしまいそうで。
小山田はじっと茶色い瞳で、俺の顔を覗き込み、つかんでいた俺の腕をさらにぐいっと引き寄せた。
「ね、このまま、フケちゃおうか?」
「えッ?」
「俺と仁木と、このままフケちゃおうよ」
俺は腕をつかまれて固まったまま、唇をひらいたまま小山田の端正な顔を見上げた。
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