437人が本棚に入れています
本棚に追加
万華鏡ナイトデート③
「ちょっと気晴らしになるかなって思ったけど――そういうわけにもいかなかったから。仁木が付き合ってよ」
俺はカラオケ店の廊下で、漏れてくる音を聞きながら、ただ固まって小山田の唇がそういうのを見つめている。
「あ、でも、皆に言わないと……」
「仁木は真面目だなぁ」
「だって、たぶん小山田がいないと……それに、部屋に鞄」
「はいッ」
ぐいと押し付けられたのは、俺の鞄だった。
「えっ」
「剛田も良いって言ってたから。はい、行こ」
小山田も自分の荷物を持っていて、もう出て行くつもりだったんだと知る。
俺の腕をつかんですたすた歩くのに、引きずられてしまう。
どのみち俺には小山田に何か反対するような理由なんて、一つもなくて。
ただこの降って湧いたような小山田の気まぐれを、この掌でそっと包んで大切にすることしか出来ない。
「あ。どこ行く?」
くるりと小山田が振り返る。俺には行くあても、行きたい場所も、小山田を連れて行くのに相応しい場所も思いつかない。
どう答えるか戸惑って、指先で、前髪のかかる眼鏡を押し上げた。
「あ……小山田の行きたいところで――」
我ながら気の利かない答えだと思いながら、それだけ言った。
小山田はにこりと目を細めて笑う。そうすると目じりが下がって、人好きのするいつもの笑顔があらわれる。
「オッケー」
明るい声色が俺に降り注いで、この胸は小さなキラキラに包まれる。
迷いもなく進んでいくその背中を追い駆けた。
ざわめく街に出て行けば、夕暮れから薄暮に変わる瞬間の、コーラルからラベンダー色の空が広がっていて、人波をすり抜けて弾むように足早に行く小山田は、それだけで眩しい。
「あ、もう駅だよ。電車来そう。急いで」
引っ張られるまま、俺は何も言うことができずに、ただ小山田の背についていく。
人が溢れるホームから電車へ乗りこんで、ぎゅうと押されながら前を見れば、そこには小山田の視線があって。
視線と視線が合えば彼はにこりと笑って、俺はぎこちない唇だけの微笑をようやく返して、人知れず呼吸を落ち着かせる。
「あ、ここだ。降りよ!」
その言葉は迷いがなくて、海沿いの駅で俺たちは降りた。
宵の吹き抜けていく風に、潮の匂い。
まだ九月の暑さの中で、隣に彼が歩いているだけで、心は魔法のように踊り出して。加速度的に海沿いの街はトクベツになる。
イルミネーションの光り出す店々の間を抜けて、信号を渡って、海沿いの綺麗に整備された公園を歩いて行く。
彼には何でもないこと。
それが、俺をまるでもっと深い想いに落としてしまう。
潮風にひるがえる彼の白いシャツの裾、風に乱されていく茶色い髪、すらりとした背に観光船の停泊している海の景色は、爽やかによく似合っていて。
この凍てついた心に、彼の笑顔は鮮やかで木漏れ日のようで、ただ憧れに果てしない想いを秘めて、そっと見つめる。
「あっ、あれ乗りたい!」
長い指が弾むように指し示したのは、埠頭に停泊している白いシティボートで、ライトアップされた船内に、人々が入ろうとしているところだった。
「三十分周遊だって。あ、もう出発時間みたい。早く!」
小山田がぐいと俺の腕をつかむのに、どきりと心臓が跳ね上がった。
最初のコメントを投稿しよう!