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くちびるに恋⑤
俺は、電話を優に聞かれたくなくて、目くばせで、ごめん、と告げてから二階の自分の部屋へと上がっていった。
「そうか。勉強はしてるか? 成績は変わりないか」
「前にメールで添付した通りです」
「ああ――そうか。そう言えば、そうだったな。ちゃんとキープしとけよ」
「どうしたんですか? そちらは、電話かけてくるような時間帯でもないと思いますけど」
「まあ、何となしに目が覚めてな。思い出したんだ」
「そうですか」
「しっかり勉強して、国立大に合格しろよ。そのために附属高校へ高い金払って通わせてやってるんだからな。大学まで私立には行かせないからな。背水の陣で受験に挑めよ。何事も覚悟決めてやるんだ、男だからな」
「わかってます」
「なんだ、反抗的な口調だな。不自由させていないのに。まあいい」
ふじゆう――それはどんな意味だったか、頭で反芻しなければ一瞬理解できなかった。
昔から変わらない。
ハードにお金は払っても、ソフトに費やしたりはしない。
学費やこの家の保持費用は払ってくれているけれど、生活費は十分にはない。
俺の母親が生活的な経済DⅤに遭っていたのだ、と理解できたのは、母がいなくなってずっと後のことだ。
「母さんにもそう言ってたんですか」
「何がだ。いつもわからんことを言うやつだな。お前は母親譲りで頭がおかしい」
「……」
「お前の弟は、来年エレメンタリースクールだぞ」
「弟……」
「憲太は優秀だから、こっちでもゆくゆくどの大学に行くのか楽しみだぞ」
見たこともない、名字が同じだけというその存在を、果たして単純に弟という、その無神経さに寒気がする。
この男と、また結婚した女性がいるのだから、そのことに限りない驚嘆をしてしまう。
「そうですか」
「じゃあ葉司、また電話する」
一方的に電話は切れた。ツーツーと果てもなく繰り返される音。
たまに何のつもりかこうして電話してくる。
その突発さが、まるで監視されているようで、息苦しい。
俺は力なく畳の上に座り込んで、ぐったりと壁にもたれた。
(お前は一族の恥なんだ!)
そう怒鳴りつけた声と凄まじい形相を覚えている。
スマホを握りしめた指は白くなっていた。
なぜ心は何かを感じて、こうして冷たく凍るのだろう。
「早く大人になりたい……」
もう縛られることのないよう。力を得て自分で歩めるように。
「葉司」
開け放しだった部屋の入り口から声をかけられて、俺はハッと振り返った。
そこには優が立っていた。
「もう切れてるよ」
長い指で、俺のスマホの画面をタップして電話を切り、そっと俺の掌から取り出した。
「どうして……」
「ごめん、ちょっと葉司の表情が、気になって」
「どうして、いるんだよッ!」
叫んで、突き飛ばした。優はされるがままに床に手をついた。俺を見上げた姿を見て、俺はサッと青ざめた。
「ご、ごめん。ごめん――俺、駄目だ……」
青ざめたままうろたえて、突き飛ばした優に、手を差し伸べて、触れて引き起こすこともできない。
「ごめん、ごめん……!」
「いや、俺が悪かったから。お父さんと、弟?」
「弟って……会ったこともないし、その母親も知らないし……向こうの新しい家族のことは、よく知らない」
「そっか……勝手に来てごめん。でも俺は、葉司のこと、知れて良かった。それじゃ、ダメ?」
「もう……分かったろ?俺と優は、全然違う――だから、やっぱり……」
俺の憧れ、俺の想い――
「あまりにも、環境が違うし。俺は、色々と……優に、相応しくない」
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