くちびるに恋⑤

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 大切に想うのなら、彼の幸せを願うのなら、それはきっと俺といることじゃない。 「でも俺、葉司が好きだよ」  ごく単純に、伝えられる言葉。 「葉司を環境で好きになったわけじゃないし。ここにいる葉司が好きだよ。今日は初めて制服じゃない姿を見て、ほんとはうわーって思ってたし」  くすりと優が照れたように、目じりを下げて笑った。 「こんな、部屋着なんか……」 「もっと、ゆるーい感じの葉司が見てみたいなーって思った。その希望は葉司は叶えてくれないわけ?」  無邪気にくすくすと笑う、その風が吹きすぎるみたいな微笑みが、俺の胸に小さな温もりを灯すようで、俺はぎゅっとシャツをつかんだ。 「俺、葉司が良いな。俺も、早く大人になりたいって思ってた」 「それは……俺と、優じゃ、意味が違うっていうか……」 「俺も、早く抜け出したい。何にも束縛されずに自力で生きて行きたい」  俺が考えていたことを、優が言って、思わず俺は優を見返した。 「あーあ、学生なんてツマンナイね」 「……優は楽しそうに見えるけど」 「そうだね、そう見えるかもね。俺、そんなに簡単に手の内明かさないからね」  優は俺の横に敏捷に座ると、ずい、と俺のほうに身を乗り出してきた。  澄んだ茶色い瞳が近くにあって、俺はどきりと固まった。  鼻梁の高いどこか日本人離れした顔立ちは、この薄暮にもくっきりとしていて、それは優の存在そのものだ。 「附属幼稚園から上がって来た俺たちは、この附属の世界で純金って呼ばれてるけどね。こういう家系や環境にいるのも、皆それぞれ違うけど、俺だって色々ある。幼稚園入る前から幼児教育でお受験して、その後は週5でおケイコに塾だぜ。一族の親戚が集まれば、躾チェックに容赦ないし、どんな素行で、どんな成績で、医学部に行くのが前提になってる。さらに、どの大学に医学部に行くのか、そんなことが俺を見る判断材料なわけ」  肩をすくめて、優は続けた。 「俺は、まだ兄貴がいる。兄貴がいて、優秀だったから、俺はまだお気楽でいられたところはあるよ。兄貴は一身に背負って――それがまた、長男として背負い切ってくれたね。兄貴はここにうまくハマれたのかもしんない。俺は本当に自分が何をしたいかなんて分からないうちに、道が決まっていた。俺の環境って何? この狭くて融通の効かない環境のこと?」  くるりと瞳を回して、真っ直ぐな視線が俺を見ている。 「俺、勉強もレンアイも言われるままだったかもしんない。やっぱ結婚しないとと思っていたから女の子と付き合わないとって思ってた。そこを外してくれた桜井先輩には感謝してる――けど、自分で見つけたのは葉司だったんだ。もし俺が、葉司を好きになった理由がいるなら」 「……」 「葉司もまた、ここを抜け出したいって感じていたことじゃないかな。俺、葉司は大人っぽくて――ごめんね、最初はスカしてんなって思ってた。それなのに、すごく気になって――ああ、違うんだって。何かはわからなかった。でも、他の同い年のやつらとは確実に何か違うんだなって。たぶん、今なら分かる。そういうとこ、好きになった。それで」  優はぴったりと肩に肩をくっつけて、寄り添ってきた。  触れた肩は熱くて、俺は浅く呼吸した。 「葉司がいてくれたら、きっと頑張れる。俺だって、疲れるんだよ――」  こつん、と俺の肩に頭をもたせかけた。 「葉司はすごく頑張ってる。それを支えたいなって思った。ただ一緒にいたいんだ。こうやってぴったり隣にいて、葉司に触ってたいし、もっと知りたい。色んなこと――一人にさせたくないって思ってしまったのは、俺のワガママかな?」  よくわからない感情が、今まで味わったことのない感情が、胸の底で渦巻いていて、やがて溢れだしてくる。  目の縁から涙が一筋、伝って落ちていた。 「もっと教えて? ぜんぶ教えて。葉司のこと、もっと知りたい。俺もこれからは話していい? 聞いてくれる? ダメって言われたら、俺はまた一人になっちゃうよ」  いたずらっぽく笑うのは、優がそう言えば、どこかで俺が断れないって見抜いているから。 「そばには、いさせてくれたら、嬉しい……けど、あの……恋愛関係は……」 「俺、葉司が可愛いなーっと思って、誰にも先越されたくないって思って焦っちゃった。葉司って色々知ってるような雰囲気だし。でもそうじゃなかったんだよね? だから、ごめんね。ちゃんと葉司に合わせるから。それじゃダメ?」  まじまじと瞳を覗かれて、頬が赤らむのは隠せない。 「俺だけ見ていてくれたら、焦ったりしない」 「それは……俺は、ずっと、優しか……」 「だったら、ずっと一緒にいてくれる? 学校に来て、修学旅行も一緒に行こう?」 「……うん」  何処まで一緒にいられるんだろうか。  だけどこんな俺だって、数瞬の奇跡みたいな夢を見たって良いんじゃないだろうか―― 「良かった」  明るく無邪気に笑う優には、俺にさえそう思わせる力があって。  優は温かな掌で、俺の手をぎゅっと握り込んだ。 「葉司、大好きだよ」  その長い指が、俺の伸びた前髪をそっと掻き上げて――  触れるか触れないかの優しさで、温かな唇が俺の額にゆっくりとキスした。  それは、神聖な瞬間みたいに思えて、俺は静かに目を閉じた。  優となら行けるだろうか、自分がまだ知らない高みへ。  手の届かないと思う存在に、ただ見つめて憧れているだけだった。  恋愛など一生することはないと思っていた。未来もその先も。  今、隣に優がいる奇跡をそっとこの掌に大切に包んで、もしも抱きしめても良いのなら。  いつか、やはり躓いて、すべて失ってしまう瞬間が訪れたとしたって。  俺が、優に何か出来ることがあるのなら―― 「葉司と修学旅行、すんげぇ楽しみ」  にこりと笑ったその顔に、俺はそっと微笑んだ。  三泊四日もの夜を、いったいどうやってやり過ごすのかを考えながら――
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