437人が本棚に入れています
本棚に追加
目覚めたら、心も傷痕もひらいて見せて④
「またすんげぇ遅かったなぁ」
しんと静まった真暗な部屋の襖を開けて、直後に声をかけられたから、俺は驚いて立ち止まった。
薄闇の中で見降ろすと、近くの布団に剛田が肘をついて横になっていた。
真ん中に原が引っくり返って熟睡していて、その向こうの窓側に、優が背を向けて眠っていた。
「剛田こそ、遅くまで……」
「もう消灯とっくに過ぎてるぞ」
「ごめん……」
「まあ、座れよ」
剛田は入口すぐの空いている布団を指差して、俺はそれに従った。
頭はどこか現実感がなくて、自分の言葉がただ舌から唇へと滑って落ちていく。
「いとこなんだって?」
「え?」
「安住瑠奈と。優がそんなこと言い捨てて寝たけど」
「あ……まあ」
剛田は鋭い目で俺を上から下まで見て、それから興味を失ったように、ふいと目を反らした。
「仁木、引っ越したことってあるか?俺、十歳の時に引っ越したんだよ、親父の仕事の都合で」
突飛な質問に面喰らったけど、かすかに頷いた。
「親父はすぐに事件に当たって、その辺りからだな、俺が父親の背中を追うようになったのは」
「そうなんだ……」
「仁木は将来、何になりたいんだ?」
「それは、まだ――特に、何も……受験して、入れた大学で考えるかも……」
「そんなもんか」
「俺は、そんなもんだよ。国立大学なら、どこでも良いんだ」
「ふーん。自分で向いていることくらい、探しておいたらどうだ」
「そりゃ、そうだね……」
「人生、先は長いんだぜ。順当に生きられりゃ、学校行くより仕事していく年月のほうが長い。何か希望をかけられるものを探したって良いと思うぜ」
俺は少し黙ってから頷いた。
「そうだね……」
「ちゃんと寝ろよ」
「あ……うん」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
おやすみ――
どこか優しい響きの言葉。
こんな言葉を誰かに告げたのは、何年ぶりなんだろう。
背を向けた優の姿を目に入れないようにして、俺もまた背を向けて布団に横になった。
人を傷つけた衝撃は、自分が選びとった道の結果。
向けられた優しさも、好意も、希望も、自分自身を晒さないことと引き換えに、この手で打ち砕いてしまった。
傷つけることのないよう、幸せを願って、そっと見つめていようと思っていた愛しい心を、自分の運命のために傷をえぐってしまった。
鋭い棘のいばらの冠をこの頭に抱いて、血を流すままに、今もここで立っている。
何処にも行けず、裸足のままで、誰も俺の名を呼ばない場所で。
俺は、もう、仕方のない人間なんだ。
だけど、大切な人に涙させてしまったことが、いたたまれない。
午前は、集団行動で京都観光で名所を巡った。
俺はなるべく群れの端で一人になって、優の目の入らないところにいるように気を付けた。
夜は横になったまま、頭だけがグルグルと冴えて、舌が痺れて、胸の薄い皮が破れたように痛くて、とても眠れなかった。
太陽が黄色いとはこのことだ――
射してくる初秋の陽射しさえ、目にチカチカと眩しくて、痛い。
集団の後ろを着いていくのが精一杯で、いったい何処を歩いて、何処に行くのかさえ朦朧として、足がもつれかける。
ふっと緑の木漏れ日に包まれて、下鴨神社で立ち尽くしている自分に気が付いた。
制服の集団は少し前を行ってしまっていて、俺は重い足で前へ歩き出した。
静謐な空気が辺りを覆っていて、瞼を閉じて息を吸った。
眼鏡をかけ直して、そうして慣れた仕種をすると、安堵する。
世界とレンズ一枚隔てて眼鏡のフィルター越しに見ていれば、何とかこの世界で生きていけそうな気がした。
バスでの短い移動は、優は原と並んで先に前に座っていた。
「よう、仁木」
剛田は片手を上げて、男らしい顔で俺を覗き込んだ。
「ケンカでもしたか、優と」
「あの……俺が、悪い、だけ」
「そうなのか? 優もあれで、きかん気なとこあるからな」
片頬で笑って、剛田は隣の席に、どしん、と座った。
「そう……なんだ」
たぶん俺の知らない時間を、幼い頃からたくさん過ごしてきたんだろう。
「そうさ。思わねぇか? まあ、長い目で見てやってくれよ」
「いや……あの――」
もう友だちでさえないんだ――
そう言い募りそうになって、剛田は頬杖をついて考え込むような顔をしていたから、何も言えなかった。
結局、剛田はそれ以上は喋らなかった。
昼食は和食処での班ごとにテーブルについての食事で、斜め前に優が座っていて、俺はとても箸をつけることが出来なかった。
何も食べずにじっとしていることも、優と会話しない不自然さも、とても耐えられなくて、俺は御膳を返そうと立ち上がった。
「仁木、食べてねぇじゃん」
原が俺を見上げて、いぶかしそうに言った。
「あ、こういうの好きじゃなくて。ごめん、先行ってるから」
「おいッ」
最初のコメントを投稿しよう!