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「それと――男は、前からこの辺りに出没していたらしい。痴漢をしたり……人通りの少ない場所だった。俺は、入口に置いておいた、自分の竹刀で頭をふいに打たれて気絶したらしい」
頭が割れるようにガンガンと痛かった。
なんとか霞む目を開けると、黒くこんもりした大きな影が暗闇の中でうごめいていた。
「俺は叫んだけど、あれは声になったのかな……」
見た光景に、息が止まってしまったから。
「大きな影の下に、気を失った少女の体があって、影はそれを撫でまわしていた。その少女が瑠奈だと気付いて――」
(瑠奈……ッ!)
(やっと、起きたか)
奇妙な笑い声。
「影に突進されて、逃げようとしたけど、足をつかまれて転がされた」
抵抗したけど、男は力づくで胸の上に馬乗りになった。
その時に床に擦れる背中や脚がざらりと痛くて、自分が全裸なことに気が付いた。
「打たれて気絶している間に、脱がされていて、ただその間のことは記憶にないんだ」
(二人そろってるとは運がいいなぁ)
「あれは、ペドフィリアなんだな。たぶん女も男も関係なかったんだ」
「そんな……」
ぬるりと何かがあごに当たり、それで口元をぐいぐいと突かれた。
思わず押さえられず金切り声が出た。
「男はナイフを持っていて、俺が抵抗すると、叫んで、逆上した」
空中に銀色のきらめきが光って、ドン、と内股に熱湯をかけられたような衝撃が走った。
「俺は、内股と、それから下腹を刺された」
地面を転げまわっていたのは、あれは誰?
遠くから、悲鳴みたいなかぼそい声。
(おまえも起きたか!)
「男は瑠奈に突進したんだ」
(瑠奈! 瑠奈だけはやめろ!)
目の前が真っ赤に燃える。
自分が何者でどこにいるのかさえももうわからない。
「立ち上がって、流れる自分の血を踏んで、俺は床に転がっていた竹刀を震える指でつかんだ」
男はいま背を向けている。
(うわああああーっ!)
「上段の構えで、渾身の力で竹刀を振り下ろしたんだ。何度も、何度も。あれは、瑠奈を守るためだったの? 自分の怒りのためだったの? どちらだったんだろうね」
「そんな――」
「俺が瑠奈の前で、あんな流血を見せてしまったから、瑠奈はしばらく口もきけずに入院してた。犯人は半身不随。瑠奈は、この記憶は失ってる。ただ自分に何かあって、俺が助けたって思ってる」
「だって……実際、そうだろ――?」
「俺は、瑠奈を守ってなんかない。俺が母親を探さなかったら。あの場所に行かなかったら。そしたら、瑠奈はもっと幸せで、俺になんか頼らなくてもよかったんだよ」
ふふ、と笑いが口をついた。なんだか可笑しかった。
「だって――葉司だって被害者じゃないか!」
(おまえは、なんということをしてくれたんだ!)
(瑠奈を守りたかったんです)
「父親は言った。おまえは、加害者だと」
(会社にもいれやしない。おまえのことお祖母さんに頼んである)
(お父さん、ごめんなさい)
(葉司は私を守ってくれたんだよね。私のナイトだね)
「目覚めた瑠奈の笑顔のきらめき。それが支えで、俺はそれに頼った」
「葉司は、一人で苦しんでた――」
「違う。それは瑠奈だ。彼氏ができたのに、瑠奈は怖いんだ。心の奥で覚えてるんだ。苦しんでるのは、瑠奈だ」
「それ……は、葉司だって一緒じゃないか!」
ガクガクと体をゆすぶられて、視界がはっきりしない。
「ああ――瑠奈も俺も、二人なら大丈夫なんだ。お互いに手をつないで、寄り添っても。たぶんきっと、同じあの瞬間にいた二人だから。でも、俺も瑠奈も、他の人間と触れ合うのは怖いんだ。何か重ねてしまいそうで」
「ごめん――知らずに責めて……」
俺はそっと首を横に振った。
「だから、瑠奈が良くて、優とキスがいやだとか、そういうわけじゃないんだ……ただ――」
「ただ怖かっただけなんだな……」
溜め息のように優が呟いて、思わずその顔を見上げた。
「一人で苦しませて……ごめんな」
俺を正面から見つめるまっすぐな瞳から、涙が溢れてこぼれていった。
「ゆ……う……」
優のなめらかな頬をつたう涙は透明で、どこまでも澄んでいた。
その涙が俺の手にぽたりと落ちて、小さなきらめきと温かさになった。
小さなきらめきは、そこからゆっくりと広がっていくようで、初めて知るような不思議な感覚に、俺は手をかざして見た。
宙に上げた手を、優の指に絡めとられ、ぎゅっと握られて、俺はビクッと縮こまった。
けれど、それは俺の手に落ちた小さなきらめきと同じ温かさで、清らかな優しさを感じた。
「ごめん――その時に、一緒にいてあげられなくて……」
「え……?」
優は片手で、俺の頭を繰り返しやわらかく撫でていた。
そうされると、まるで良い子になったような不思議な感覚に捉われて、俺は目を閉じた。
「葉司……俺は――どうして今出会ったんだろう? どうしてその時、俺が葉司を守ってやれなかったんだろう?その時に飛んで行って、俺が葉司と安住さんを守りたいよ――葉司、怖かったね……」
自分の唇が震えだすのを止められなかった。
「優……!」
気が付くと、自分の頬を、涙は後から後から溢れていて、俺は震えながら泣いていた。
優が俺の頭を抱き込むと、その肩に、俺の涙も震えも吸い込まれていく。
限りない優しさに包まれて、俺は泣いていた。
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