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「ごめん。今日は初めから、こういうつもりで葉司を部屋に呼ぼうと思ってた。もちろん葉司の大丈夫なところまでで良いんだけど。葉司が許してくれないと、俺は何も出来ないよ。ダメ? 俺のこといやになった?」
ゆっくりとした丁寧な口調だった。
「いや……なんて……」
気の利いた答えなんて何も見つけられずに、ただ口ごもった。
この胸に巣食う恐れを連れ出して、優の望みに上手く応えられたら良いのに。
そんな夢みたいなことは起こらずに、体は硬直して、優の重みに気が遠くなる。
この世界をさかさまにして、優の望みを叶えられる自分に今すぐになれたら良いのに。
「ごめん……俺じゃ、なかったら……いいのに」
冗談みたいに言おうと思って、でも上手く笑えずに、ただ唇は強張った。
「葉――」
流れそうな涙は何のため。
ただ遠くから見つめていた光に、これほど近付いて、奇跡みたいな瞬間に、こんなことしか言えない自分が情けなかった。
優を傷つけるくらいなら、自分の恐れなど投げ出してしまったほうが良いのに、心はせめぎ合って、答えを見つけられない。
「大丈夫、優。俺は、大丈夫」
自分に言い聞かすように、真っ白な頭のまま、俺は絞り出すようにそれだけを繰り返した。
「葉司、俺――無理させてる? キスも大丈夫になったから、俺、焦ってる?」
俺は強く首を横に振った。
「葉司、遠くに行かないで。俺だけを見て。ほら、ここにいるの、俺だよ」
首筋に息がかかり、それがつと上がってきて、頬をくすぐるようにキスが落ちた。
柔らかで清潔な吐息は、確かな優の存在で、心に分け入ってくるようだった。
「俺に触って、葉司」
囁くような低い声で、じっと俺を覗き込む。
その瞳は、今までに見たことのない色をしていて、見てきた姿からは想像もできなくて――
茶色い瞳は追い詰められたようでいて、それなのに、あやしく光るようで、俺は魅入られていた。
その長い指が俺の指をからめて握った。
優は、俺の手を自分の首筋へと押し付け、それから肩へとすべらせた。
掌にはしっかりとした優の肌の感触があって、ためらいがちに指を伸ばしてみた。
それから、両手で優の頬に触れて、不思議な気分で、首筋、肩、腕、胸元へと掌へとすべり下ろしていった。
数十秒のことなのに、長い時間が過ぎていったみたいに感じる。
ここに、優が生きている。
その当然みたいなことが、こうして触れていると、まざまざと伝わってくるみたいで、しばらく優に触ることに夢中になっていた。
とても大切な時間に思えて、この両手いっぱいに優の命を感じて、それをさらに確かめたくて、もっと触りたくなる。
背中に手を回すと、それまでじっとしていた優が、ふいに俺を抱きすくめた。
「葉司――」
「……優」
好きだ――
愛しさで身動きがとれなくなるほど。
どちらからともなく唇を触れ合わせて、それを何度も繰り返した。
胸と胸をぴったりとくっつけて、肌を寄せ合って、指と指をからめて、確かめるようにくちづけ合う。
自分の呼吸が上がっていって、ただもう目の前には、優だけしか見えなくなった。
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