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実らせるなんてことはないこの想いは、そっと胸に収めているだけで、彼が笑う瞬間を見られれば、それだけで幸せになるんだ。
彼が目じりを下げて笑えば、心はふわりと幸福に満ちて。
彼の明るい笑顔は、この胸の奥にある、恐れの棘をも忘れさせてくれる気がする。
タオルで頭を拭きながら、鏡を見る。
そこには黒く、昏い瞳をした一七歳が映っている。
伸びた黒い前髪からのぞく、切れ長の黒い瞳。尖った顎の、青白い顔に、色のうすい唇。
表情は何かを諦めているみたいに、恐らく十七歳よりは年上に見えるだろう。
静かで大人びている――
そんな風に言われるけれど、ただ年相応にはしゃぐことも、嬉しがることも出来なくて。
ただ勉強して、空いている日にバイトをして、それだけの繰り返ししか俺にはない。
痩せて骨ばった身体を拭いて、通学の用意を急いだ。
ふっと、ヘソから下腹にかけて、それから内股に大きく走った、今では白く盛り上がった目立つ傷痕が目に入った。
それは、俺の忘れられない贖罪の刻印。
もう二度と空を飛べない鳥のように、俺はただ自分を鳥籠に閉じ込めて決して放ちはしない。
彼への想いも、壊れないように見つかってしまわないように、ただそっとそっと掌で温めて、密やかに憧れるだけのもの。
附属高校へ向かう電車に乗ると、まだ早い朝の車内は人もまばらに空いていた。
あのまま再び眠ることもできず、ただ外へと出てしまいたくて学校へと向かっていた。
今日は彼も登校して、あの明るい笑顔を遠くから見ることができる。
そう思うと胸がじんわりと温かくなって、指先をそっと胸に当てた。
鞄の中のスマホが振動して、メッセージが来た。
俺のスマホを鳴らす相手は、一人しかいない。
友だちなどずっといない。
―おはよ!いま起きたよ。すごく空が綺麗。同じ空を見てるかな? 葉司に会ってないな。早くまた会って話たいことたくさん! 今日会える?
そんな言葉とともに、濃い青に、うっすらと雲がかかっている朝の空の写真が送られて来た。
瞳を閉じると、素直な黒髪を背に流して、大きな瞳をした、すらりとした人形のような美少女の姿が思い浮かぶ。
安住瑠奈という名がよく似合う――俺と同じ年の美しい、いとこ。
「瑠奈」
そっとその名前を小さく囁くと、自然と唇に微笑が浮かんでくる。
―俺はもう電車。じゃあ、学校の帰りに。
そう返事をするけど、本当は瑠奈には会わないほうが良いのだ。
それは分かっている。
分かっているけれど、瑠奈の存在は大切で、同じ高校に進学してきた瑠奈を遠ざけるのは難しいし、俺も会いたいと思ってしまう。
瑠奈は、彼女の母親が卒業したお嬢様学校に行くとばかり思っていた。
瑠奈が聖マリア女学院を選ばず、進学校のこの附属高校に来ることを知った時は、かなり驚いた。
でも、俺が瑠奈と接触することは、彼女の両親には喜ばれない。
俺は、瑠奈の両親から嫌われている。
学校でもその他でも、俺と瑠奈が会っていることが公にならないほうが良いんだと思う。
―早いなっ。鷹宮さんから返事ないよー。まだ起きてないのかな。
―彼氏にも連絡したの? まだ既読になってない?
―ならないよー!
そんなやり取りをしながらスマホの画面を見つめて、ふっと瑠奈の様子が浮かんで笑ってしまう。
なんて返そうか――唇を緩めたまま、ぼんやりと考えている時だった。頭上から声が降ってきた。
「仁木でも、そんな顔するんだなぁ」
突然に名前を呼ばれて、俺は驚いてスマホの画面をスリープにして、慌てて眼鏡を指で押し上げながら、声のほうを見上げた。
俺は声を失って、返事もできなかった。
小山田優――そこにいたのは、彼、だった。
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