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「…ご静聴、ありがとうございました」
フィルムを回し終えた映写機が止まる。さざ波しか聞こえない静まり返ったなかで、相変わらず飄々とした声が耳朶に染み入る。
「私」はというと、しばらく俯いたままだった。自己を取り戻したというのに、こんなにも心がもやもやする。
死んでいて肉体なんて存在しないのに、呼吸はひどく乱れて、汗で身体が濡れている感覚が気持ち悪い。
情報を一気に流し込んだせいで軽い酩酊状態になって、しばらく立つことすらままならない。
唯一ハッキリしていることは、せいぜい今し方映写機にセットされていたフィルムは、ド三流監督の作品ということだけだ。
まったく、ひどい冗談だ。生前はおろか、死んだ後も自殺を謀るなんて。馬鹿らしくて笑い話にもならない。
「その様子では、取り戻せたようですね?」
「…ええ。おかげさまでね」
皮肉まじりに返す。今更だが、こいつだけは妙に心持ちが伺いにくい。見てくれはともかく、やはり人の理はあの世では通用しないのか。
こちらの顔色を伺いつつ、ミカイは自身の放つ胡散臭いオーラをこれでもかと見せつける。
つい先程まで幽霊のような視点で自分を見つめ直していた身としては、その態度から発せられる確かな実感として覚えられる。
「貴女の声も聞けて重畳でしたよ」
「…ふん、そりゃどうも。欲を言えば、ポップコーンとコーラのサービスが欲しいところね」
「生憎と私、売り子ではないので。そういったクレームには対応しかねます」
開口二番の嫌み兼皮肉に対して、にこやかかつさわやかに受け流すミカイ。そんな彼は軽い咳払いの後、本題に移らんとする。
「…お訊きしますが。貴女の人生は、どうでしたか?」
その問いに対して「私」は、取り戻した私が答える。息を吸い込み、つい先程まで使い方を忘れていた喉を震わせ、声を発する。
「……そうね。率直に言ってクソよ」
今更取り繕う必要もない。私は今の今まで、誰にも喋る事ができずに溜め込み、墓どころか三途の川でも捨てられなかった、一切のオブラートを取り払った言葉を叩きつける。
「…女が女を愛して何が悪いんだか。常識なんて何よ、知るもんですかそんな偏見の塊! 性的マイノリティ? 異端? 色眼鏡で見んな、叩き割られたいのかそのガラス玉みたいなその目玉! 遺伝性病気って何よ。何でそんなクソみたいなモノまで受け継がなきゃいけないのよ! 生まれ持った借金ってぇの? 冗談じゃない、お呼びじゃないっての! 親族のどいつもこいつもみんな揃って腫れ物みたいに扱いやがって。さんざん問題児みたいに見といて今更手のひら返して可哀想みたいなツラすんな! 他の、なにも知らない馬鹿共もだ。自分の意見なんて何一つ無い案山子以下の癖に、他人とは違うって他所の意見ひとつで人様をさんざんこき下ろして、いざ死んだら手のひら返して同情的な目をしやがって! 自分は悪くねえってか? そのふざけた匿名性取ったらなにもできねぇ癖に、ペラペラと薄っぺらい言葉を吐くんじゃねえ! 反吐が出んだよ、脳ミソの溶けた豚共が!!」
──はぁ、はぁ、はぁ。使われなかった喉を限界まで酷使したせいで息が持たない。不足した酸素を供給する鉄の、血の味が舌に残る。
変な話、死んでるのに息苦しいものは苦しい。肺どころか血や肉体なんて既に火でくべられて、残骸は白磁の壺にぶちこまれているだろうに。
生きている間、ずっと吐き出したかった事をぶちまけたからなのか、真っ黒な海に浮かぶ舟以外の波紋が伝わっていた。
…でも、以前とはちがって、私の中にはもう黒いもので満たされていない。ちゃんと、闇以外にも大事なものがある。
「…それでも。私は私のまま生きた。この海みたいな、どす黒い闇も、全部私だ。例えクソみたいな人生でも、私のものだ。誰になんて言われても」
「……そうでしたか。それは重畳」
そこで、船は港に近づいている事に気がつく。よく見ると、奥にぞろぞろと行列が形成されている。あれが件のループ、というものらしい。
「終点です。お駄賃を頂戴しましょうか」
「…拾ってもらって、申し訳ないんだけど。私、無一文の身なのよ」
地平線まで広がる黒一色に目を落とす。カネが払えないなら、これでは密航だ。また海に放り投げられるのか、と身構える。
「いえ、もう頂いていますよ?」
そんな私を待ち構えていたのは、意外な回答だった。マヌケそうに目をぱちくりとさせていると、ミカイは手のひらをじゃらじゃらと鳴らしながら運賃のコイン三枚を見せる。
「…え、なんで? さっきまでは──」
「──ふむ。ああ、そういうことですか」
…なに訳知り顔をしているのだ、コイツは。それと、記憶を取り戻してからあらためて思ったのだが、私はどうして釣り上げられたのだろうか。
「…ところでさ。どうして私を引き揚げたの?」
「どうして、とはまた?」
「…いや、なんか都合が良すぎる気がして」
首を傾げながら、私の曖昧な問いに頭を捻るミカイ。こちらも、うまく形容できない違和感が胸につかえていているようで仕方がない。
どうにもピンポイント過ぎるというか、わたしは死んでから妙な悪運が働いた、と楽観的には考えられないタチな為、答えを得なくてはスッキリしない。
ふと、黒い海をそれとなく見つめる。墨のような水面に、自分の金の瞳だけが妙に明るく、さながら月のように映っていた。
そこで、顎に指を添えて考え込んでいたミカイが、私の問いに答えを述べる。
「…実を言うと、貴女の少し前に、別のお客を乗せていましてね」
「別の、客?」
「ええ。また随分と変わったお嬢様でした。なんでも、自分のお駄賃を預かってほしいと。その代わりとして、自分の髪を差し出しまして」
「髪を? 何でまた?」
「はい、なんでも、これから後に来るであろうお方は、おそらく何も持てずに舟に乗るだろうと。だから、自分のぶんで乗せてあげてくれ、と嘆願されまして」
──ふと、頭に浮かぶ。もし、この場に居たならば、似たようなことをのたまうであろう、物好きの顔を。
「ちょうど、ワタシも釣糸に困っていたものでしたし、なにより女の命を差し出されたからには、引き受けざるを得ませんでした」
「釣糸? それって…」
「ええ。貴女の考えている通りです。また綺麗な髪でしょう。絹のような、栗色の──」
──脳裏を過る、その姿。いくら手を伸ばしても、永劫に届かない場所に行ってしまった、その少女を。
「よほど生前、心残りがあったのでしょう。もしやり直せるなら、今度こそご友人を救えるようになりたいと。今時珍しいお方です」
──頭を過る、言葉と光景。あの暖かみのある、しかして図々しい、あの娘の笑顔と声。
…私は思い返す。最後に、あの糸に触れた瞬間の、意識が途絶える瞬間。誰かの姿が見えた。あれは、きっと──、
「ねえ、やっぱり私ってさ…」
「ええ、無一文に情けはありません。本来は地獄行きは十分でしょう」
「…でしょうね」
「はい。名前はわかりませんが、助けてくれたお方に感謝してください」
「…うん、ホントそうね」
自嘲気味に苦笑する。ふと、何か眩しい明かりが辺りを通り過ぎる。それは灯台の明かりだった。
船旅の終わりを告げるように、埠頭に着くと、舟はその場に固定して陸への架け橋が掛けられる。
「…到着です。長旅、ご苦労様でした」
私は彼に礼をひとつすると、ようやく落ち着いた足取りで渡る。そこで、ミカイと向き合う形になる。
「では、最期に。手垢のついた言葉でございますが…」
ミカイはさっきまでの飄々とした雰囲気を引っ込めると、その態度は身に付けている服装に相応しいそれに変わる。
「──様。今生は、大変ご苦労様でした」
胡散臭さの擬人化のようなミカイの告げる、その一言だけは、とても誠実で、暖かみに満ちていた。それが、私のボロの魂に染み渡る。
「…はい。ここまで、ありがとう」
手を差し出し、一言に詰め込めるだけの感謝を込めて、この船頭にお礼を言う。それを受けて、ミカイは微笑み返す。
「──ええ。またのご利用を御待ちしています」
船頭は手を握り返した。不思議と、心地のよい暖かみが伝わった気がする。舟を降りる際、私は満足げに笑みを返した。これが私の、最期に交わした会話だった。
私は思った。どうせなら、最初からいなくなりたいって。でも、今は少し違う。ああして見送ってくれるヒトがいた。それが、冷たくなった躯に、小さな火を灯す。
彼のほうへ振り返ることなく、ぞろぞろと並ぶ列に向かう。夜の埠頭は、不思議と暗くはなかった。胸の奥の光が、握り合った右手が、ささやかな灯りで闇を照らし、左眼の金の虹彩が、これから進む道を確かに映しているから。
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