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──何故「私」は、この深い海に沈んでいるのか。それは私がそう望んだからだ。自らこの黒い水底へ身を投げたのだ。
──絵描きになりたい。そう思っていた。子供の頃からの夢だった。もっとも、家の、身内には理解はされなかったが。
加えて、母親からの遺産とばかりに、この色彩の異なる目と異能、病気まで受け継いだ、生き写しのような子供。そして、とどめの同性愛者。
圧倒的なまでマイノリティ。人に世話されなければ生きていけない癖に、還元出来るモノは何一つ持っていない、厄介者だった。
他人とは異なるモノは、必ず色眼鏡越しに見られる。何処にも居場所など無いし、ささやかな趣味でさえ、理解は得られない。
いなくなりたい。誰も知らない場所へ。どうせ誰も理解しないし、死んでも悔やまれない。
なら、私は暗闇でひっそりと生きたい。そこなら誰にも触れられないし、ささやかな期待も抱かずに済む。ずっと、そう思い続けていた。
以前、彼女と話した事を思い出す。いつものように退廃的で非生産的な、傷を舐めるような絡み合いの後、お互いの体温を確かめ合うようにベッドで横になっていた時だ。
「…私はさ、死にたい訳じゃないんだ」
一糸纏わぬ彼女の肌から感じられる熱を確かめながら、私はそう告げる。それを聞き、彼女はさも意外そうな顔を浮かべる。
「そうなの? いつも高いビルを眺めてた気がするけど…?」
何度も重ね合わせてしっとりとした唇を眺めながら、彼女の返事を聞く。確かに、私はよく高いビルは見上げていたけれど、それは少し違う。
「いや、ああいうガラス一面に張られたの、全部割れたら下にいる人はどれだけ被害に遭うんだろう、って思ってただけ」
「…自殺考えるよか、よっぽど物騒よそれ」
…いや、そんなことはどうでもいいことだった。私の趣味の悪さは置いておいて、本題に戻る。
「人間…いや、私たちってさ。数億ぶんの一を勝ち取ってここにいるわけでしょ?」
そうらしいね、とわかったようなわかってないような会釈をする彼女。マンガだったら、頭の上にハテナが立っているに違いない。
前から思っていたが、この子はどうも私より大きくて張りのある胸に栄養を持っていかれているようだ。ちょっと悔しくなって突っついてやろうか。
「でも、不思議と勝ち組って気はしないのよ。だからかな、たまに思うの。もしかしたら、私じゃないほうが良かったのかもしれないって」
「…どうして?」
「私は多分、この世界に必要ない存在なの。この身体は病魔が住み着いてるし、見世物にできるだけ身体は美しくない。世界に貢献できる技能もない、劣等感の塊。人間に寄生することでしか生きられないムシケラ。その癖、みんな仲良く平等に~、なんてフレーズを聞くと鳥肌が立つ始末よ」
…私としていつものことだが、こういった愚痴を垂れ流すと、彼女の顔は決まってくしゃくしゃにしたコピー紙みたいになる。
「そんなことないよっ。貴女はあたしに無いものいっぱい持ってるし、みんなが知らないこともいっぱい知ってる。あたしは、貴女が死んだら悲しい。絶対、泣いちゃうよっ…」
思わず身体を起こして、こみ上げる涙と咳で遮られるまで彼女は自身の気持ちを吐き出す。私は、その潤んだ瞳から流れる雫を拭ってあげる。
「もう泣いてるじゃない。…それは私も同じよ。知ってる誰かが、大切な人が傷付いたり、死んだりしたら、とても辛い」
「じゃあどうして…?」
「そこからいなくなっても、記憶が、記録は遺る。どれだけ価値のないものがあっても、大事に想う人は存在する。だからこそ、喪失が強い痛みを生む」
そう語る私に、彼女は悲しそうにこちらの瞳を見つめてくる。その胸中は伺い知れる。だからこそ、私はその続きを口にする。
「だったら、いなくなりたい。誰の記憶からも、記録からも、消えてなくなりたい。傷として遺りたくない。そうすれば、誰も泣かなくて済むんじゃないかな、って」
そう語る私の顔は、乾いた笑みを零していた。けれど、潤んだ瞳は私を逃がそうとはしない。
「…そんな顔しないでよ。勿論、私だってそんなの夢物語だってわかってる。もしもの話よ、もしも」
──冗談めかして言っているが、もしも実行できるならば、私は必ず実行するだろう。
それをわかってか、珠沙華の面持ちは晴れない。彼女は私の手を取り、互いの指を絡めながら、視線を外さない。
「でも、やっぱりやだよ。どれだけ幸せでも、あたしは貴女を、大好きな人を忘れたくないよ…」
触れた先から、震えが伝わってくる。にわかに溜め込んだ涙が瞳を揺らいで見せ、彼女の心持ちを表しているようだ。
「…約束する。あたし、ずっと貴女の心に居るよ。例え貴女がおばあちゃんになっても、居なくなってあげない」
「…うん、そうだと、いいな」
私はもう片方の手で、珠沙華の涙を拭う。指先から伝わる熱が、お互いの心を繋いでいるように思えた。──それが、私の驕りだったと知らずに。
──今ならわかる。あの子は本当は、私の傷に、絶対に癒えない不治の病になりたいと思ったんだ。
周りに合わせて自分が曖昧になっていく事がどうしても許せなかったから、何もかも自由になりたくて、それでも動けなくて、あそこから翔ぼうとしたんだ。
彼女は墜ちたんじゃなくて、翔べなかったんだ。背中に翼がなかった、それだけの話だった。
それをついぞ理解することなく、私はこの世を呪い、憎み、怒り、嫌悪し、気に入らないものを全部を殺して、でも何も手に入らなくて、そして自ら命を絶った。
そして、私はここにいる。気が付いたら、先程のような白い箱の中にちょこんと座り込んでいた。
周りには、私と同じような魂が規律正しく並んでいた。そこで、個人個人に、死後の現世の様子を目の当たりにされた。
…それを見て、聞いて、私の示した最初の反応は。深い、とても深い溜め息だった。
──私の最期に巻き起こした、一族まとめて殺した、凄惨な事件。世間様は挙って同情的な、そして勝手な意見を束ね、勝手な真実を作り出していた。
現世では精神異常者、或いは稀代の殺人者がメジャー。匿名という仮面越しに言いたい放題だ。
そのくせ、珠沙華のことは殆ど取り沙汰されることはなかった。人の目が彼女を殺したようなものなのに、触れもしない。
見知っているような、やっぱり殆ど知らない顔は、インタビューでまあ好き勝手言っている。世の中における、私の立ち位置はこうして固着する。
続いて、死んだ後の魂の行く先を説明された。過去の悪行について、来世が決まるそうだ。
他人がいなければ、自己は定義できない。マイノリティの私は皮肉なことに、死んだ後に公平な評価を人ならざるモノに受けていた。
…いくらクズ共とはいえ、殺ってしまった以上は次はろくでもないモノに魂を宿されるだろう。でも、それは正直どうでもいい。
それよりも、私は今回の生でひどく疲れてしまった。大切なものを失う。生において必ず訪れるだろうこの定めに、言い知れぬ恐怖を抱いていた。
いくら肉のカラダが燃え灰になったとしても、魂という部品だけは、その業を秘めたまま使い回され続ける。
私は、それが厭になった。三途の川を前にして、私は怨嗟の炎によって焼け爛れた身を、今度は闇夜のように深く暗い海へと投げた。
来世なんて知らない。苦しみの先に尊いものを見つけようとするループを知り、そして喪失の痛みを想い、怖くなった。
だから私は、この黒い海に身を投げたのだ。今更輪から外れるなんて怖いものか。
生のひとつを、輪から外れた生き方をすれば、もっと大きい輪から抜けられても気になんかするものか。
何より、もう喪失の痛みを負いたくない。温かな光を智ることで、冷たい闇の中を怖いのだと覚えてしまうことが、堪らなく厭だった。
そう思った。少なくとも、こうして黒い海に身を委ねるまでは。
最初に頭から飛び込んだ際、今までの記憶の殆どは溶けた。水底へ沈んだ段階で、自分と、自分を形作り、人を傷つけた言葉を失った。
あとは、無垢な赤子のように、全てを忘却して緩やかに眠り、身体の輪郭を溶かしていくのを待つだけだった。
──けれど。「私」はその糸を手に取った。消えたかった筈の自分が、あの光に導かれて、手に取った。
あの時、意識を刈り取られる瞬間。「私」…いや、私は誰かの声を聞いた。あの、栗色に光る糸を垂らしたのは…いったい…。
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