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ぼやけていた意識が鮮明になっていく。目を開くと、「私」は宙に浮いていた。…訂正する。浮いているのではない。「私」の右腕に絡み付いた光のような糸が、「私」を釣り上げているのだ。
「お気付きですかな?」
頭上から声が聞こえる。声の方角へ目を向けると、釣糸の先に竿を持った人物が見える。「私」は真黒の海から一本釣りされると、丁重に船へと乗せられる。
「私」は甲板の上に横たわる。一見すると漁船のように見えるが、エンジンの音は一切せず無音であった。辺りは海と同じように真っ暗で、船に垂らされた提灯鮟鱇のような、ささやかな灯りだけが甲板を照らしている。
「無事のようですね。それは何よりで」
「私」を釣り上げたとおぼしき、僧侶とも神父ともとれる和洋ごった煮の格好を纏う、胡散臭さを擬人化したかのような人物がそこにいた。
「……!」
何故かわからないが、身体が怠い。そこの真っ黒な海から引き上げられたが、「私」の身体は全く濡れてはいない。にも関わらず、まるでずっと長く泳いでいたように身体が泥のように重く、言うことをまるで聞いてはくれない。
「しかし、驚きました。あの海に沈んでいるとは。よく溶けませんでしたね」
溶ける、という言葉の選びに首を傾げる。「私」の手足に目をやるが、グズグズになっているわけでもなければ、末端が消失しているふうでもない。ただ、輪郭が少々曖昧になっており、まるでラフなスケッチのようだ。
「知らないのですか? あの真っ暗な海に落ちれば最後、魂が輪廻からこぼれ落ちて、何処へも行けず漂うのですよ?」
心配そうにそう告げる謎の聖職者風の男。しかし、輪廻に魂という、まるで死後の世界のような形容の仕方に違和感を覚える。
「お忘れで? あなたは、既に生を終えている」
……なんだと? 今、「私」は確実に驚愕を露にした顔になっていることは想像に難くない。
確かに辺りを見回せば、浮世離れした光景が何処までも続いているが、いざそう言われても納得はできない。そも、「私」はなんであるかすらわからないのだ。
「多分、自分のことを信じられないでしょう。よくあることです」
そうはいっても、と納得のいかないこちらの様子を汲み取ってか、彼はこの漁船の案内をし始める。
「ここの奥に体重計があります。それで今の自分を魂を計るといい」
従うのもシャクだが、と「私」は船の奥にあった体重計に乗る。メーターは、21グラムちょうどを表していた。
「私」はこれを見て、首を傾げずにはいられなかった。自分の体重など覚えてはいないが、ヒト一人の体重にしてはあまりにも軽いことは、何もわからない「私」でもよくわかる。
「うむ、少し痩せぎみではありますが、まあ問題はないですね」
そんなことを言われても困る。魂なんて形のないものを、いったいどこが基準だというのだ。というより、人の体重を盗み見るのはどうなのだろうか。「私」は気にはしないが、流石に無作法が過ぎる行為だろうか。
「プライバシーを犯したことは詫びましょう。しかし、しっかりと重さを計らないとループには送れません。ご了承を」
ループに送る、と言うか。つまるところ、この黒のインクのような海が、所謂三途の川と言うわけらしい。
「私」は徐に懐を探るが、コインらしきものは見当たらない。海の底に沈めてきたか、もう払い終えたのか。いずれにせよ、彼にバレたならば再び放流されてもおかしくない。
「それに、先程から気になっていましたが」
びくり、といきなり指摘され、つい肩を跳ね上げる。やはり無賃乗船はよくなかったのか。恐る恐る様子を伺う。
「もしかして。あなた、言葉は話せないのですか?」
──? この男は妙なことを訊く。この者の言葉は自然と慣れ親しんだように理解できる。ならば同じく話すこともまた造作もない筈だ。むしろ、心配して損をしたという感情すら湧いてくる。
そう考えて、「私」は息を吸い込み喉を震わせる。だが、そこから声は発せられない。風の振動だけで、発声が成されていない。
「ふむ、喉を潰されているわけでなく。しかし、声は出すことはできない。魂に原因があると見てよいですね」
魂に原因ときた。そんなことわかるわけがない。それこそ、この「私」が極悪非道な畜生でもない限りだ。
「しかし、そうなると呼び方が無いと困りますね。──ひとまず、魚さんと呼びましょうか?」
…釣り上げられたから、なのだろうが。流石に安直が過ぎないか。とはいえ、じゃあなんと呼べと訊かれても答えようがない。好きに呼べばいい、という意図をもって頷く。
「よろしくお願いします、魚さん。私のことは、そうですね、ミカイ、とでもお呼びください」
…変な名前、と声は出せないが心の中で呟く。ミカイと名乗る胡散臭い男は、灯りらしい灯りもみえない遠くを眺め、また懐から海図らしきものを取り出し確認する。
「さて、港に着くまでまだ時間はあります。その間、魚さんの欠けた記憶を呼び起こしておくべきでしょう」
そう言って、彼は船の奥で覆いに被せられた映写機を持ってくる。かなりの年代物らしい雰囲気を醸し出しつつも、手入れは行き届いていることがよくわかる。
しかし、肝心のフィルムらしきものがセットされていない。これではがらくたと相違ない。そう思っていると、あの船の男は手袋を外し、まるで人形のような指を晒す。
「それでは、失礼して…」
「私」の額に指を添える。すると、リンゴの皮を剥くように、額の奥から映画のフィルムが抜き出されていく。異様な光景だが、不思議と痛覚は感じられない。
「いいですか? 魂の経験は次の命に受け継ぐ際必要なものです。それが欠けると、最悪…ね」
…言葉を濁さないでほしい。その先で何があるのか、正直怖くて想像したくない。
「ですから。こうしてあなたの中にある、記憶を観て経験してもらいます。そうすることで、繋がらない自分に何かが思い出すことになるのです」
成すがままフィルムを抜かれ、それが終わると「私」から抽出されたフィルムを映写機にセットする。
「あなたの中で、優先順位の高いモノから引っ張り出した記憶です。…視聴の準備はよろしいですね?」
つい、反射的に唾を呑む。それを合意と見たか、映写機を起動させる。すると、まるで目の前に太陽でも現れたかのように、視界が一瞬のうちに光で奪われる。目は眩み、身体がどこかへ墜ちていく感覚だけが「私」を支配していた。
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