夢を見る「私」

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 しばらく経つと、瞼の奥からの光が和らいでいく。目を見開くと、先ほどまでの明度の差から視界がはっきりとせず立ちくらみすら起こしたが、三十秒も経てば視界は正常なピントと明度を取り戻す。  最初に映ったものは、「私」の手のひらだった。血管どころか腕全体、身体中が風景に透けて見え、体重を感じられない浮遊感も相まって、はっきりと呼吸をしているのにも関わらず自身が生きた存在にはとても見えなかった。  血の気が引く思いをしながら顔を上げると、そこはさざ波の音が聞こえる浜辺だった。陽は既に沈みきって、月明かりが海に反射し幻想的な雰囲気を演出していた。 …だが、一方で周囲の色彩はいやに淡く、夜景としてはぼやけすぎている。そういった意味でもこの場所は幻想的だ。  そこはまるで古ぼけた写真か、或いは色鉛筆で描いた絵の中に入り込んだのかと錯覚するような光景だった。  いつまでもじっとはしておれず、地に足の着かない感覚のまま波打ち際を歩く。夜風が吹き、飛沫が不定期に掛かるのにも関わらず、足が全く濡れなければ、風や潮の冷たさも感じられない。本当に自分が肉のある存在なのか、そう問題提起したくなる程度には違和感を覚えていた。  時折、夜空を反射する海に自分の顔を映すことを試みるが、「私」だけは一切姿形が映らない。まるでお前はこの世界では部外者だ、と言われたように沈んだ心持ちで暗夜行路を往く。  やがて、浜辺の先に切り立った岬を見つける。そこには「私」以外の何かが立っているように見えるシルエットだけでもわかる。ヒトのカタチをしたふたりがそこにいる。顔はわからないが、少なくとも「私」という定義しようのないものを見つける切欠になるかもしれない。  足取りは自然と駆けるように早くなり、身体があまりにも軽いお陰もあって、すぐに岬まで到達する。  岬に居たのは、二人の人物だった。ひとりは栗色のセミロングの髪をなびかせる、明るいイメージを与える、女性的な要素が強調された体格の女。  もうひとりは対照的に中性的で、外見からは性別はわからない。松葉杖を着き左眼に眼帯を着け、髪も肌も病的に白く、とても健康的とは言いがたい。  栗色の髪のほうは海を背にしている為、向かいに立つ「私」を視認できる筈だが、一切認識できる素振りではないことから、やはり「私」はこの場においては幽霊と相違ないようだ。  栗色の髪の女と松葉杖の者は何かを話していた。双方ともに顔はぼやけているが、とても穏やかな雰囲気とは言い難かった。  不躾だと理解しながらも「私」は耳を澄ませて、ふたりの会話と表情が正しく認識できる距離まで近寄る。 「──あたしは、嫌いなの」 『…なんで? こんなだから? 他人と違うから?』 「……違うの。そうじゃないの。悪いのは──」 『…待って、やめて。やめてっ…』 …理由はわからないが、彼女らの会話は聞き取れない。だがふたりの口の動きと、それだけではない何かが、この問答の一部始終を脳内で再生させている。  それはまるで、耳にヘッドホンを着けて映画を観ているように。或いは、既に読んだことのある本を脳内で回想するように。  栗色の髪の女は涙していた。顔がぼやけていても、声と頬をつたう雫は隠せない。松葉杖の者は、そんな顔をした目の前の相手をなんとか繋ぎ止めようと足掻いていた。 …今すぐ、目を逸らしてしまいたい。なぜだかわからないが、そういった感情が真っ先に来る。脳の奥から見るなという命令が再三に渡って告げられている。  確かに、このふたりは見てはいられない。見えない傷口から止めどなく血が流れている様は、心に辛いだけの痛みしか生じさせない。だが…、 「──ごめん。約束は、守れない」 『…なんで。周りの目なんて──』 「あたしは、貴女と違うの。違う、んだからっ…!」  輪郭が歪む。声に嗚咽が混ざる。一声一声が、真綿で首を絞めるような苦しみを、自戒する為に生み出し続ける。 「あたしは、貴女の隣には居られない。ううん、いちゃいけないの」 『そんなバカなこと! 誰がなんと言おうが…!』 「…あたしが赦さないのよ!」  すぐにでも自分の首を掻き切りそうな女は、まるで神の前で自らの罪を告げるように叫び続ける。流し続ける涙で歪んだ顔が、その心持ちを痛いほど伝えてくる。 「…自分勝手でしょう? 都合で寄り添って、都合がいいから傷を舐め合って、都合が悪いから周りの誰かの声で、あなたを……」 …決壊寸前の瞳の奥には、突き刺さるような罪悪感が満ち満ちていた。今すぐにでも胸に刃を突き立てんばかりに、その姿は痛々しいものに映る。 「あたしは、どっちも捨てられなかった。あなたも、周りの、普通の世界も。だからっ……」 ──懺悔は続く。声はぼろぼろのレコードのように途切れ途切れ、一言を発する度に彼女は内側から自壊していくようだった。 「──傷つけた。今の自分を守るために、汚い自分を守るために。あなたを傷つけた。他でもない、あたしが、あなたの心を踏みにじった!」 ──罪の告悔は終わらない。仮に女の首を締め落とそうとも、電気椅子に括りつけられたとしても、その心に憑いた物は、罪は雪がれることはない。 「はは、はは、ははっ。汚いでしょ? 醜いでしょ? 散々一緒にいて、同じ時間を共有して、ココロもカラダも通じ合った筈なのに、あたしは、あなたを裏切った…!」  栗色の髪の女の、壊れたおもちゃような乾いた笑いは、止まらない涙と一緒に潮風に乗って耳に響き渡る。汚泥のような淀みきった内側を晒しながら、女の狂笑は次第に悲痛な呻きに変化していく。 「…恨んでよ。憎んでよ。嫌ってよ。なんで黙ってるのよ? 罰してよ! なんで優しいの!? なんで辛そうに笑ってるの!?」 『……それは、』 ──それは、愛してるから。  松葉杖の者の一言を聞き、目を見開く。信じられないものを目に、耳にしたと。 『──あんたのいいとこも、ダメなとこも、纏めて好きなんだから。それでいいじゃない?』  さも当たり前のことのように、松葉杖の者は揺るぎない信頼を以て言い放つ。そして、目の前で崩れ落ちそうになっている、傷だらけの相手へ手をさしのべる。 『…だからさ、かえろ──』 「──来ないでっ!」  ゆっくりと近づいていく松葉杖の者に、波の音を掻き消す程の声で制止する。取ろうとした手を払うように引く栗色の髪の女は、救いを求めるようだった先程までとは決定的に違っていた。 「…最ッ低。あたし、ホントに最低だ…。この期に及んで、あなたに甘えようとしてる…。恥知らずにも程があるよッ…!」  自己の内側から漏れ出る他者の声が、自分の声に換言されて脳内を駆け巡る。彼女の顔は、許しを請う教徒ではなく、裁きを待つ罪人に映った。 「…嫌い。あたしは、あなたの優しさに甘える、弱くて、汚くて、中身がない、あたしが、大ッ嫌い…!」  一歩、また一歩と。靴の踵は踏み場のない場所を、絞首台を目指す。松葉杖の者は手を伸ばす。必死に制止する。焦るあまり蹴躓いて転げ落ち、顔を土で汚しながらも懇願する。 『…なんで!? あんたが自分を嫌いでも、「私」だけはあんたを嫌わないから!』 「違うの! もう、誰にもあたしを見て欲しくない! 甘えたくないっ! いなくなりたいのっ!」 『…やめ、やめて! お願いだからっ!』  栗色の髪の女の踵が空を踏む。遠ざかっていく。どれだけ急かしても、残酷なくらい近づけない。本当に届かない場所に行ってしまう。 『…やめて、よ。行かないで──』 「…本当に、ごめん。──、さよな──」  栗色の髪の女は、深い何かに抱かれるように、或いは息苦しい陸から解放されたくて、鳥のように空を翔ぼうとしたのか、岬から跳ぶ。  私は、届きもしない手を伸ばし続ける。どうしようもない人生における、最も親愛なる者へ向けて、ぐしゃぐしゃに涙で歪んだ、悲しみと絶望に押し潰された顔へ向けて。その手は、虚空しか掴めないことをわかっていたとしても。  重力はそんな心境などお構い無しに、女を落下に誘う。途中、尖った岩に身体を激突させ、骨と肉が砕ける生々しい音が耳朶にこびりつく。  そして、彼女は足下のダークブルーに沈んでいった。彼女の墜ちた場所からは、赤々とした水溜まりが広がっていった。  残された者は、ただただ爆発するかのような慟哭と、胸を抉る喪失感に身を委ねることしかできなかった。 ──視界が歪む。フィルムを回し終えたかのように、淡い色合いの世界から浮上し、身体の臓器が浮くような感覚がいっそう増していく。最後、女の口から零れた一言だけが、妙に印象に残っていた。 ──うそつき、と。  確かに、そう呟いていた。落ち行く今際の表情は、どこか自嘲的で、また心にどうしようもなく突き刺さる、歪んだ、それでいて心からの安堵の笑みだった。  それがどういう意図だったのか、空っぽな今の「私」にはわからない。ただはっきりとしていることは、ふたりの平行線は、もう交わらない。どれだけ会いたくて、触れたくても、永遠に。 ──パリン、パリン。気が付くと、「私」の周りから何か、陶器のようなものが割れる音が断続的に耳へ届けられ、両手からは奇妙な感覚が纏わりつく。  指でまさぐると手のひらにベットリとした、生暖かい感触が滴り落ちているのがわかる。唾を呑み、恐る恐る視線を移すと、足下には赤々とした水溜まりができていた。  私はぎょっとして目を剥く。暗い赤の水面に映っているのは、両手が、白く細い指が、頬が、音を立てて崩れ、内側から流れ出る赤に染まる、醜悪なナニカだった。  私は、声のない絶叫を上げていた。
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