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喉が枯れる程の絶叫を上げていた筈の視界が急激にブラックアウトする。
しばらく経ち再び目を開くと、今度は真っ白な、それこそ天井の蛍光灯すら真っ白の、色のない部屋だった。
部屋とは形容したが、よく観察すればその実平坦な廊下と開けっぱなしの扉が何処までも続く巨大な回廊だった。
先の夜の浜辺とはまた対照的で、完璧な清潔さと代償に見る者の心まで消しゴムのように白くしてしまいそうな、形のない不安感が湧いてくる。
「私」が一歩歩き出そうとすると、四肢からじゃらり、という鉄の擦れる音が聞こえてくる。
視線を落とすと、西洋の中世頃に出てきそうな、錆びた枷が手足に嵌められていた。
鎖は切れているが、まるで先端に重りを着けてられているみたいに、身体の自由がいまいち利かない。
辺りを見回しても、鍵の類いは見当たらない。どうしてこんなものを着けられなければならないのか。これでは「私」が罪人だと言われているみたいだ。
こんなものを着けられていては気分が悪い。「私」は鍵を探そうと、開けっぱなしの部屋のひとつを適当に選び足を踏み入れる。
一歩目を踏み込むと、ぐじゅっ、という何かを潰してしまったような音と感覚が爪先から発せられる。
思わず息を呑み、視点を足下へ移動させると、その正体はチューブ状の絵の具であり、踏みつけた拍子に中の赤い絵の具が吹き出してしまったようだ。
…先程の手にべっとりと着いた赤を思い出し、反射的に身をよじる。徐に両手へ目を配るが、はじめからそんなものはなかったと言わんばかりに白く、まるで作り物のように綺麗だった。
そんな四肢とは対照的に、極度の緊張のせいか呼吸のリズムが大きく乱れ、ひどく咳き込んでしまう。近くに鏡はないが、映せばさぞ酷い面構えが拝めるに違いない。
…深呼吸をして乱れた心身を調える。上っ面程度の平静を取り戻し、あらためて足を運んだ場所を見る。「私」の踏み込んだ部屋は、さながら箱形のキャンバスだった。
至るところに、それこそ余白が見えないほどに隙間なく極彩色がぶちまけられ、さまざまなチューブの絵の具が乱雑に捨て置かれている。
不思議なことに、絵の具の臭いはしない。その代わりに噎せ返るほどの、鼻が曲がってしまうような、雑菌が嫌うだろう臭いがこの空間に、いや外の回廊を含め充満していた。
そして、箱の奥には影法師ひとり立っていた。そいつは黒い筆を取り、白い部分を余すことなく塗り潰そうとするみたく、マゼンタ、イエロー、シアンといった色彩で何重にも層を形成していく。
最初こそ鮮やかだったその三色の色合いは、重ねる度に少しずつ濁っていき、最後には光が差さないような真黒に収束していく。
目にしているこれは、所謂アート…と呼ぶべきなのか。だが、少なくともこの箱形のキャンパスを目にして湧き上がる、この言い知れない感情が、どうにも気持ち悪くて仕方ない。記憶のない「私」でも、これが感動ではないと直感的に理解できる。
その一方で、このアートとおぼしきもののメッセージ性を探り当てようとする「私」も確かに存在する。
あの胡散臭いミカイと名乗った僧侶の言う通りならば、先程の光景も、今目の当たりにしているものも、中身のない「私」に関係するのだろうから。
…胸の奥が掻きむしりたくなるような気持ち悪さに苛まれながら、箱の中身を嘗めるように観察を続ける。
すると、影法師は部屋を真っ黒に塗り潰し終えると、どこか物憂げに見つめると、筆をしまってとぼとぼと部屋を出ていく。「私」その寂しそうな後ろ姿をあわてて追う。
ほんの少し、振り返って真っ黒に塗りたくられた箱に目を移す。そのキャンバスは、元々どんな色だったかわからないくらい様々な色を重ねて、遂にはどす黒く染まり、なにも残ってはいなかった。
…一分一秒眺める度に、胸の奥から言い知れぬ不安が駆り立てられる。「私」は、なるべく足早にその部屋を後にした。
外の白い廊下には、墨のような黒い雫が垂れた跡がひたすら続いていた。おそらく、あの影法師の足跡のようなものだろう。
「私」はその跡を追い続けると、また先程の部屋と同様な、開きっぱなしの部屋が規則正しい間隔で設けられ、その奥はやはり目を奪うほどの極彩色だった。これも、あの影法師が描いたのだろうか。
影法師は決して足早ではない。だが、なぜかその後ろ姿を追う度に、肺の奥に微かな違和感が湧いてくる。
──けほっ、けほっ…。雫を追跡しその後ろ姿が鮮明になるにつれ、度々咳がこみ上げる。時には息が詰まりそうになるほど酷くなる。変な話、声は出ないはずなのに咳だけはきっちり響く。
病原菌どころか埃すら見当たらないこの真っ白な空間にいて、何故か「私」は身体の内側に違和感を覚えていた。心なしか、ここに現れてから、あの影法師を見つけてからというもの、皮膚の感覚が妙で、熱や冷たさもを感じられなかった浜辺の時とはうって変わって汗ばんでいる。
熱で頭がうろんでいると、影法師は無限に続きそうな回廊から唐突に消失する。…いや、部屋のひとつに入っただけだ。そんな簡単なことに気が回らないほど、今の「私」は相当に頭や身体がやられているようだ。
ふと、「私」は振り向く。あの影法師の足跡はどれくらい続いていたのか、という些細な疑問からだった。
そこには、黒い雫に被るように、「私」最初に踏んづけた、べっとりと靴の跡が白い廊下に赤の絵の具が足跡として遺っていた。暗い赤はまるで血糊を連想させる。
…熱も相まって気持ち悪さが増してきた。早いところ影法師の入った部屋に追って踏み入る。
そうして訪れた今度の部屋は、不気味に過ぎた。今度は色の代わりに、文字の羅列がローラーを引くようにこの四角い空間を駆け巡っていく。文字の羅列は帯状になって影法師を締め付ける。
文字は頭に残響する。記憶がない「私」でも、その連なる文字が言葉であるとわかる。壁一面の言葉の帯に指先が触れる。言の葉で出来た帯は指に絡み付くと、脳に直接言葉が反響する。
「──可哀想に…」
「──遺伝性ですって。あの母親が…」
「──絵なんて、家のことに比べれば…」
──目が飛び出そうになる。身体中の汗腺から汗が吹き出る。水分が不足して頬がこける。心臓に強い負荷がかかる。血液の、空気の循環が滞る。気がつけば、「私」は膝を折って床に突っ伏していた。
どうしてこうなっているのかはわからない。ただ、蛇のようにまとわりつく言の葉は、その一言一言が脳にこびりつき、この世のあらゆる病魔よりも貪欲に身体を侵食するようだった。
「──もう長くないらしい。誰が面倒を…」
「──家で一人だけの子なのに、こんな荷物とは…」
「──あの血の女は…」
「──の者が言っていました。あの子、壊れてるのでは…」
「──やはり、あんな者を…」
耳を塞いでも、振りほどこうとしても、声は止まらない。まるで皮膚と、血管と、五感と同化しているかのように身体中を廻っていく。
白い肌を傷がつく程引っ掻いたとしても、流れ出るのは赤い鉄の臭いだけで、脳を割るような残響は絶えることはない。
憐愍、批判、比較、批評、侮蔑、偏見、興味本位、便乗。どのような意図を含もうと例外なく、既に自分の身体を多い尽くす程の言の葉でできた帯は、「私」の内外を犯し、見えない何かを決定的に傷付けようとする。いくら喉を震わせようと、自分の声は嗚咽すら聞こえないというのに。
共通しているのは、これらはみんな匿名だということだ。偽物の、誰にも見えない、傷つかない顔で、私を見ている。誰かを傷つけている事に気がつかないまま。
「──可哀想に」
…黙れ。
「──所詮はイカサマ師の子」
…黙れ。黙れ。
「──異常者め。どうして…」
……黙れ。黙れ。黙れ。私を勝手に決めるな。見ているだけでなにもしない癖に。
私は私だ。この眼に視えているものも、この耳が聴く音も、この舌が話す言葉も、この鼻が心地よく思う香りも、この手が触れたいと思ったものも、私を想う私の意思も、すべての識は私だけのものだ。
──じわり、じわりと。垂らした墨のように。淀んだ感情が私の心を侵食していく。なんの重みもなく、ただ人を傷つける声に、強い怒りが胸の奥を埋め尽くしていく。
気がつくと、影法師は私の前に立っていた。そいつの表情はのっぺらぼうのように平べったくて、その上黒で塗り潰されて、感情のようなものは伺えない。
『…だいじょうぶ?』
けれど、そいつは私の手を取った。声に抑揚はない。とても熱のようなものはない。けれど…、
『あなたは、どんな絵を描くの?』
そいつはそう言い残して、私に筆を渡し、そして霞のように消えてしまった。一人ぶんのスペースが空いた、ローラーで轢かれまくった部屋が残った。
私は、ベタベタに塗りつぶされた言葉のローラーの上を、新しい色でさらに丁寧に塗り潰そうと筆を取った。
誰の色に染められてたまるか。私は私だ。その焼け付くような激情を指先に籠めて、描く。描く。描く。脳みそにこびりつくあらゆる雑音を、筆先で上書きしてやる。
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