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…「私」は夢を見ているのか。瞬きをすると、あの真っ白な場所からまた別の場所にいた。
今は、あの白い部屋の胸焼けしそうなクサイ臭いもしなければ、誰も悼まない線香の香りもしない、春の陽気を感じられるコテージにいた。
少しだけ目を閉じて、ゆったりと漂う穏やかな空気に身を委ねる。爽やかな風に流れる、若草の香りが鼻をくすぐる。
「──ねぇ。寝ちゃった?」
…向けられた声で目を覚ます。重い目蓋を開けると、ひとりの女性が微笑んでいた。
「どうしたの? 急にうとうとしちゃってさ」
「…ごめん、ちょっと気持ち良すぎて」
「ははっ。ちょっとわかるかも」
女性は再びコテージの向こう側の椅子に座り込む。視線を落とすと、手元には白いキャンパスがある。傍らにはパレットもある。
「私」は自然と筆を取り、視線の先にあるものを描いていく。何故かわからないが、まるで息を吸うような自然な動作だった。
手は動く。頭よりも早く。これが自分が好きなことなのか、という疑問を解決する暇もない。彼方は彼方で、ゆったりと椅子に座り、こっちの筆の動きを期待に満ちた眼で見つめてくる。
モデルは微笑む。黒い髪を栗色に染めて、服装も外の雰囲気に合わせた鮮やかなワンピースが、メリハリの効いた体つきを強調している。
大体一時間は経ったか、一心不乱にキャンパスとモデルに向かい合い、絵は一通り完成した。
まだ白黒で、色はこれからだが、少し座り疲れたようで、彼女はいじらしくお尻をもぞもぞとさせる様を見て、一旦休憩とする。
その姿は決して彫刻のように美しい訳ではない。だが、その屈託のない笑顔には、私は自然と惹かれていた。
「どう? ちゃんと描けてる?」
知っている。ああ、知っている。その笑顔を。この胸に去来する穏やかなものを。私が大切にしたかった、ささやかなものだ。
特別な、人とは違うものを抱えている自分でも、人と同じように大切に思うものがあってもいいんだ。
珠沙華は、私にとって其に当たる。ささやかな、どこにでもある友情。…だからこそ、だ。私の内に有るものは、墓まで持っていかなくては。
「…前から気になってたんだけど」
一段落して、室内の同じソファーに腰を掛けながら、彼女はふと訊ねてくる。
「…なにが?」
私がそう訊き返すと、彼女は問いに加えるように、辺りに立て掛けてあった幾つかの絵を指す。
「なんであなたの絵って、自分の名前書かないの? 誰が描いたかわからないじゃん」
…その問いに、私は俯き加減で答える。
「…覚えられたくないんだ。みんなに、私を」
「どうして?」
「だって、失望するでしょ?」
溜め息混じりに、かつてと同じように零す。彼女はその意図を掴みかねている一方で、私の面持ちの重さを慮ってか沈痛な目をしていた。
「ある時は可哀想に、って。ある時は、ヘソ曲がりって。またある時は、──の、異常者ってね」
…最後のは自嘲だけれど。
「私はね、膿なんだって。メーワクなんだって。生きてることが、まるで悪いことみたいにね」
「そんなこと…」
「あるんだ。少なくとも、私はそういう扱いだった。平等を尊ぶからこそ、普通じゃないモノは疎まれるんだ。…クソが」
…吐き捨てるように、そう言い放つ。
「…しつこく言うけれどさ。私は猛毒なの。薬にもならないし、臭いもきつい。隣にいるだけで誰かが迷惑する」
半ばこれが私の口癖になりつつあった。離れるべきなのだ、と常に警鐘を鳴らす。
「やだ」
そして、珠沙華の返事は決まってこれだ。ノーの一点張り。言うなれば異端。今までの人間とは明らかに違う反応。
「今更そんなこと言われて、引き下がるとでも?」
…わかっている。だからこそ、彼女は私から離れなければいけないんだ。
──この、心地よい夢に浸かっている間に。「私」から離れれば、彼女にも要らぬ傷を負うことも、あの黒い海に墜ちる事もはない。
……「私」? 何を言っている。頭の中で先程までの光景が残響する。やがて訪れる悲劇を視て、彼女は「私」に触れるべきではない。
「私」に? そう思ったか、私。ではあの車椅子の子は? 私と名乗る、あれこそが「私」 なのか?
なんとなく、そんな予感はあった。その心持ちを汲めるのは、他ならぬ自分自身ならば造作もない。
「…ダメだよ」
駄目だ、と思いながらも。私の心はその暖かみにとらわれていた。ひたすらそのひだまりの下に立っていたかった。
──甘えてる。「私」は、私は、岸珠沙華に、生まれてはじめて得られた暖かなモノに惹かれている。
「あたしじゃ、ダメ?」
…そう問い掛ける彼女は、まるでポメラニアンみたいな、小動物が必死に訴え掛けるような眼で、こっちをじっと見つめてくる。
「やめて? そういう目」
「そういう目って、生まれつきこういう目だよ」
「いや、そうじゃなくて。はぁ…」
私は身体を後ろに向けて、溜め息をひとつ。その目を直視するのが、どうにも耐えられなくなりそうで、俯いてしまう。
「…期待させるようなコト、言わない方がいいよ?」
「どうして?」
「無防備過ぎだから、だよ」
そっぽを向く私に、這い寄るように顔を近づけて、顔を覗き込んでくる珠沙華。その水晶のような瞳に、ぐちゃぐちゃなノイズ混じりの顔が映り込む。
「女同士だよ?」
…だからこそ、なのに。珠沙華ときたらこれだ。こっちも、いい加減我慢の限界ってものがある。
──少し、意趣返しも兼ねて、その言葉の意味をわからせようと、私は彼女の肩を掴んで押し倒す。
「……あの、──さん?」
動揺か、普段はしないような呼び方で、こちらを見つめてくる。目線は泳ぎ気味で、あからさまに戸惑いが露になっている。
「私は、貴女を──い。そう思っていても?」
…息遣いが顔に掛かりそう。もう一歩ぶん近づけば、唇同士が触れ合いそうなくらい。
「ち、近いって…」
「女同士でしょ? 問題なくない?」
先程投げ掛けられた言葉をそのまま返す。それを受けて「ずるい」と零す珠沙華を目の当たりにすれば、嗜虐心をそそられる。
「…私は、貴女を犯したいと思っていると言ったら?」
珠沙華の顔に微かな緊張が満ちる。予期していなかった、という風の驚きも見てとれる。
「…ずっと思ってた。貴女の、その綺麗なカラダに触れたいって」
頬に触れる。毎晩きちんと化粧水を使って、ケアを欠かさない瑞々しい肌だ。
指先からハッキリとわかる。いつもと全く違う触れ合いに、未知を前にして身体中が強張っている。
「…逃げないんだ?」
既知でない、初めて触れる「普通じゃない」モノに対して、人によって反応は別れる。
恐怖して逃避するか、好奇心を発揮して積極的に味わうか、大体はこの二択だろう。
この車椅子の子、「私」の主観だが。…大抵は前者が多数だ。恐れて、気味悪がって、排斥する。
彼女はどちらでもない。恐れてはいる。けれど、受け入れようと努力しているふうだ。さながら、小さな子どもが苦手な野菜を克服するみたいに。
今度はワンピース越しに、形のいい胸に触れる。張りのある胸はほどよく指を押し返し、その度に彼女の肩が、全身がピクリ、ピクリと疼く。
反応が面白くって、今度は首筋を舐める。上気しているのか、舌先は熱を帯びていて、滑ると彼女は小さく声を上げる。
それでも、珠沙華は私を突き離そうとはしない。顔を赤くして、初めての感覚に息を乱しながらも、いつもみたいにノーとは言わない。
「…イヤならイヤって、言ってもいいのに」
「いわ…ない、よ」
涙目になりながら、彼女は視線は外さない。
「受け、入れ…るって、決めた…からっ」
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