夢を見る「私」

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 外は既に陽が落ち、部屋の灯りは落ちている。お互いの目に映るのは、月明かりに照らされている、女の肢体だった。 「…ホントに大丈夫?」 「…正直、ちょっと怖い」 「こっちも初めてだし、お互い様」 ──唇が触れる。微かに震えていた。未知の恐怖か、或いは『普通』じゃないからか。一般的には忌避される関係だ。怖くない、というほうが変なのだろう。 「…やめる?」 「……ううん。続けて」  もう一度唇同士が触れる。上気した身体に、ひんやりとしたキスは心地よい。震えは治まって、受け入れる準備を始めたようだ。 ──非生産的と笑わば笑え。これはより深く繋がる、ただのコミュニケーションだ。他所の、どこの骨とも知れない頭でっかちの阿呆にとやかく言われる筋合いはない。  珠沙華の肩がびくり、と跳ねる。吐息が甘く鼻孔をくすぐる。湧き上がる悦びのあまり蕩けた彼女の顔を見ると、もっと弄り倒してしまいたくなる。  指先が、唇が、肌が、あらゆるモノが触れる度に、私と珠沙華のふたりが融けてしまいそうな、上気する感覚がシルクの上で満ち満ちて、溢れ出す。  何もかもが蕩けた中で、剥き出しになった心魂が、確かに触れ合って、結び付いた。  それを何度も確かめ合うように、粘膜は何度も絡み合う。時が経つにつれ、獣と人の区別がつかなくなるように、ほとんど消失した理性の代わりに支配する本能の赴くまま、お互いの身体を貪るように重ねていった。  快楽の坩堝に沈んでいた、その時だった。瞬きひとつすると、頁は再びめくられ、世界は移ろい、暗転してゆく。  この手に掻き抱いていた少女は、霞のように消えてしまった。車椅子の子を伝ってその想いを受け取っていた「私」は、その消失の痛みに悶えていた。  皮膚の薄い場所、肋骨で守られた胸の奥。「私」の身体の中で最も弱い部分を、容赦なく刃物が突き立てられ、絶叫を響かせながら切り刻まれる。  ぽっかりと空いた穴を綺麗に埋め合わせた大切な部品を、刃によって癒着した部分ごと抉り出され、傷口は塞がれることなく、血は止めどなく流れる。 ──痛い。痛い、痛い。痛い、痛い、痛い。痛い、痛い、痛い、痛い。いたい。いたい、いたい。いたい、いたい、いたい。いたい、いたい、いたい、いたい。イタイ。イタイ、イタイ。イタイ、イタイ、イタイ。イタイ、イタイ、イタイ、イタイ。イタイいたイイタいイタイいたいイタイいたいいタイイタイイたイいタいイタいいたいイタイいたイいタイ痛イいタイ痛イいタいイタいいたイいタイ痛痛いタい痛痛痛痛イタ痛い痛イタいいタイ痛い痛イイタイ痛タイ痛痛痛痛痛いタイいタイイタ痛痛イタイ痛イタいイタイ痛イタイ痛い痛イいタい痛イい痛いイタい痛イいタいいたい痛イ痛痛痛痛痛痛痛痛痛いイタイ痛い痛い痛い痛イ痛イ痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛─────、  両手で押さえても、傷口から痛みは溢れ出す。とうに失血死してもおかしくないだけの赤を垂れ流しているのに、自分は息絶えない。  失った部品に手を伸ばしても、その指先は何も掴めない。消えたという事実が脳を侵食していく。  今までの、幸せな頁の一枚一枚が、風穴の空いた胸をいっそう傷付ける。転がり悶えながら、頁に描かれた笑顔が、胸を焼き焦がす。 「…嘘つき」 ──声が聞こえる。誰のだ。この氷のようなのは。これは…私のだ。彼女のは、もっと暖かい。  あの子は、大地のシミになって消えた。声が、みんなの声がダメにした。私たちが、マイノリティこそが悪と。  私は、彼女の心を覗くのが厭だった。他の人はまだいい。この金の眼で視なければ、はっきりと伺えないから。わからないからいい。だから、目を背け続けた。  心なんて見なくてもわかるなんて、いくらなんでもバカ過ぎる。人がどれだけ抱え込んでいたか、一番近くにいた自分がつゆほど知らなかったなんて、滑稽にも程がある。  予兆は、恐らくあった。あの日の数日前から、車椅子を引く力が弱くなっていた。触れた肌がどこなく荒れていた。隣で眠る彼女が、時折魘されていた事を。 ──気がつかなかった。いや、目を背けていた。図々しい彼女のことだ。きっと平気だ。私と隣にいるこの時は、きっと彼女の癒しになる。 ──阿保か私は。そんな訳あるか。珠沙華は、私を受け入れると決めた時から、耐えていただけだ。平気な筈がない。 私はただ、ようやく手にいれた安息を、今更手放すのが怖くて、目を瞑って、耳を塞いで、自分を騙していた。隣と同じ顔をしていれば、心地好いから。 ──罰。そんなワードが痛みに紛れて過る。  これは、この痛みは罰なのか。他人と違うモノが、違うまま幸せになろうとした罰なのか。  他人と違うと定めておきながら、それと同じような真似をしていた。それに気が付かず、出来るはずの事を見逃していたからか。  この疑問を反芻する内、「私」はふと思い至る。何故、あの車椅子の子…私は珠沙華を遠ざけたのか。 ──それは、愛していたからだ。その人となりを知り、好感を抱き、心地好さを覚えたからこそ、彼女とは離れるべきだった。  他人とは違う。その存在と隣にいれば、必ず排斥される。横並びの世界。異なる能力は必要ない。異なる容姿はいらない。異なる性向は不潔。 …そして、それと共に並んでいる者も、同類だ。いらない。目障り。気持ち悪い。 ──真っ暗な空間が、赤く染まる。「私」の赤で、彼女の赤で、津波のような赤が、視界を塗り潰していく。 ──気がつくと、「私」はあの空間に戻っていた。先ほどまでの光景は、失くした記憶、だったのだろうか。  あの後も筆を取って影法師の描いた絵の続きを一心不乱に描いていたようで、既に描きかけの絵は完成していた。  それは、「あか」だった。赤、朱、緋、紅。見ているだけで眼が焼け付きそうな「あか」だった。  煌々としていて目が眩みそうなのに、その「あか」にはどうしようもなく黒い何かが潜んでいるように見えた。まるで──、  背中で汗をかいていて、ふと振り向くと、自分の描いていた絵とよく似た光景が揺らめいていた。燃え盛る炎もかくやという、粘り、暗い、鉄の塗料が乱舞する。  一面ムラなく塗りたくられた「あか」に目を奪われていると、少し前まで散々纏わりついてきたローラーの文字が腕を侵食していることに気がつく。脳には、ただ一言だけが残響していた。 『…嘘つきめ』 『…うそつきめ』 『…ウソツキメ』 『…愚か者め』 『…忌み子め』  恨み節を込めた、吐き捨てるような断末魔。近くに散らばる、人形の部品と、溢れる真っ赤な歯車。それを聞き、私の胸に去来するのは──、 「……ハハッ、ハハハハハハ!」  笑いがこみ上げる。息を吸うだけで、噎せ返りそうになる。肺が潰れそうだというのに、笑いが止まらない。手足の枷は、とっくに千切れていた。 「ハーハハハハッ、ハハハハハハッ──」 ──でも、どうしてだろう。視界はひどくぼやけて見える。何が原因なのか。頬を伝うものが、眼から溢れているからだ。  やがて足下まで「あか」が迫る。爪先がじりじりと生暖かい鉄の臭いが染み付く。それが身体全体まで登ってくると、壊れた笑いが止まらなくなる。 ──たぶん「私」は、いや、私は思うのだ。この胸の奥に湧き上がる気持ちは、きっと──、 『──哀しいね』 ──誰かの声を聞いた。そして、私は。 「……そうだね」  刹那、私は自分の喉に鉄の刃を突き立てた。  あかいスプリンクラーが舞い散り、頭の中が加速度をつけて曖昧になっていく最中、私は、視界の端で、何かを見た…気がした。
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